2018年5月20日日曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 2


第一章の最後の部分、少し手を入れた。

それだけに小此木先生からの教えを一方的に受ける立場にあった先生方には、先生の少し違った側面を体験した人もいるようだ。かつてのお弟子さんの中には、先生のかなり手厳しい指導を体験したという話もよく聞くのである。それらの人々の中には、おそらく小此木先生から直接精神分析の手ほどきを受け、先生の考えを直接取り入れた先生方もいらしたと思う。そしてそのような立場の先生方は、先生とのエディプス状況に入ってしまい、そこを抜け出せなくなっていたというニュアンスもある。その意味では直弟子ではない私は先生とは適度の距離が存在していたのが良かったのかもしれない。
 もう一つ穿った考えをするならば、先生と私はある共通のテーマを持っていたのではないかと想像してしまう。それは従来の精神分析理論をどのように自分の中で消化し、相対化するかという問題だ。純粋主義 vs 相対主義という私のスキームは先生に気に入っていただけたようだったが、先生との会見の最後の部分は、フロイトがいかに巷に知られている「フロイト理論」の実践者とは異なり、自由に振舞っていたのか、という事に興味があるという話であった。そしてその頃先生がお読みになった Arnold Cooper の論文に触れ、フロイトが実際に患者とのあいだで自分自身についても語り、自由な感情表現をしていたことに関心を示されていた。
 私にとって亡くなった人々は依然として心の中では同じように息づいている傾向がある。そしてその意味では小此木先生の死去は彼の存在の近さを損なうことには少しもなっていない。むしろ常に微笑みかけてくれる存在で居続けている。それが私にとってのかけがえのない「現実」である。