第2章、結構書き足した
・・・・・しかし「解釈中心主義」を掲げる根拠が希薄になった場合、つまり患者さんが「自分をよりよく知ること」を第一の目的に治療を訪れていると考えるのを止めるとき、私たちのカウンセリングや精神療法に対する考え方は振り出しに戻ってしまいかねないのではないか? そこで私が提案したいのが、患者さんの「洞察」の獲得を治療の目的として据え直すことである。
患者さんが主として求めているのは「洞察」である
ところで「洞察」も精神分析の世界は非常に特別の意味を与えられた概念だ。それこそ「解釈により与えられるものが洞察だ」という立場をとる人にとっては、私の「解釈の代わりに洞察を求めよう」という主張はほとんど意味をなさないだろう。そこで私が本章で用いる「洞察」は、かなり私なりの使い方であることをお断りしておきたい。洞察とはわかりやすく言えば、患者さんが「ああ、そうだったのか!」あるいは「ああ、そう考えればいいのか!」と納得できるような思考、考えである。そしてこのような洞察は、必ずしも解釈のみによりもたらされるわけではない。それは患者さんの無意識内容に由来するとは限らない。「世の中は、人の心はこのような仕組みになっているから、私はこう感じていたのだ」という洞察なら、無意識とは関係がないことになる。そして洞察は、それを得たときにある種の心地よさ、スッキリ感が伴うものである。解釈が与えられた時に伴う、厳しい現実を受け入れることによる苦痛とは無縁である。あるいはそのような受け入れの部分を含んだとしても、それにより自分の考えが整理された爽快感が増すことになるだろう。
この洞察という意味を考えていただくために、まず以下の文章を読んでいただきたい。日本精神分析協会のホームページに掲載されているものである。
私たちは誰でも、ある種の無意識的なとらわれのなかで生きています。そのとらわれが大きすぎると、苦しくなり、ゆとりを失い、ときにはこころの病になります。 精神分析は特別なやりかたで、分析を受ける方と精神分析家とが交流する実践です。分析を受ける方がしだいに自分自身を無意識的な部分も含めてこころの底から理解し、とらわれから自由になり、生き生きとしたこころのゆとりを回復させることをめざしています。(日本精神分析協会公式ホームページ「精神分析とは」の一節、一部を強調。)