さてここにフロイトが想定していたリビドーとか欲動はどう絡んでくるのだろうか? 残念なことに欲動に相当するものは、脳科学的には浮かび上がってはこない。フロイトの無意識ないしはイドには、欲動やリビドーといった液体のようなものが存在し、その鬱積や放出が症状を形成したり人を突き動かしたりすると考えられてきた(フロイトの「水力モデル hydraulic model」という表現はこの事情を表している。)ところが、新無意識を探索しても大脳皮質には広大なネットワークが広がり、そこに海馬と扁桃核が深く関連し、また小脳や大脳基底核が記憶やスキルの成立に貢献し、それらの間を流れるのは電気的な信号である。実際の物質の流れは存在しない。ましてやリビドーが貯蔵されているような場所など脳内に存在はしない。
脳においてリビドーに変わって重要な枠割を持っているのが、いわゆる報酬系である。報酬系は「内側前脳束 mid forebrain bundle」という部分に存在する側坐核や中隔皮質などを含む。私たち人間は、いや動物は、個々の部分の興奮により快感を覚える。他方脳にはそこが興奮すると不快を覚えるような部分も多数存在する。私たちの活動はことごとく報酬系を興奮させるものへと向かい、また不安や不快を感じさせるものからは遠ざかるという性質を持つ。また私たちは本能的な活動も脳の中にプログラムされ、食欲をそそるものにひかれたり、例えば異性の姿に興奮したりする。あるいは一方で強く惹かれながら、他方でそれが喚起する不安のために活動にブレーキがかかったりする。その意味では脳のなかでは様々な力が影響を及ぼし合っているように見える。しかしそれはリビドーという実体に伴う力ではない。
新無意識が提案する治療のあり方
最後に新無意識が示す治療の在り方について述べたい。そもそも新無意識の取り扱い説明書はまだ存在していないし、これからも当分存在しない可能性がある。フロイトの精神分析理論はいわば「旧無意識」を前提としたものであった。その理論を支えていた匿名性の原則、禁欲規則、中立性、受け身性などは、新無意識に準拠する形でかなり改変される必要がある。そして新無意識が求める治療原則は意外にも常識的で当たり前の姿をしている可能性がある。
ここで一つお断りしなくてはならないのであるが、新無意識とは、決して「新しい無意識」ではない。私たちが進化を遂げて、リニューアルした無意識を獲得した、という話ではない。新無意識とは、私たち人類が生まれたときから持っている無意識(あるいはフロイトがそう概念化したもの)を新しく理解しなおしたものであり、ある意味では「より正確に理解された無意識」である。そしてそれに対する治療的なアプローチも、より無意識の現実の姿に合致したものということになる。そしてそれはおそらくいわゆる多元論的なアプローチに近づいたものと考えられる(Cooper, McLeod 2011)。
Cooper, M, McLeod, J;
Pluralistic counselling and Psychotherapy. Sage Publications, 2011.クーパー、マクレオット著:心理臨床への多元的アプローチ.岩崎学術出版社 2015年
このアプローチは、心の在り方がフロイトのような決定論来的なとらえ方から外れ、基本的には偶発性と伴い、予想不可能な部分と、過去の繰り返しとしての側面を有する。そして治療者も正解を知り患者に解釈を伝えるというスタンスから、治療作業を共働的 collaborative なものとなる。
これに関して、心理療法に関するLambertの報告というのがしばしば話題になるのでここで紹介したい。ランバートはその1992年の報告で、精神療法はその効果の40%は治療外の要因、つまり外的な出来事、クライアントがもともと持っている強さなどが関係し、そして技法とモデルは15%。精神分析で治したとしても精神分析の技法でもって治したのは15%に過ぎない。その中で、30%に関しては受容、共感、思いやり、励まし、クライアントとの治療関係でそういったものがすごく大きな意味をもっているという報告である。治療者としては本来に立ち返るしかないのではないか、ということになる。