2018年5月19日土曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 1


推敲がまた最初に戻ってきた。これからは推敲の推敲だ。

まえがき
「精神分析とはいったい何か?」 私はこの問いを長い間自分に向け続けてきている。1982年に医師になって直後からであり、もう36年も時間が経過したことになる。そろそろ答えが出そうなものだが、決してそういうことはない。精神分析にこれだけ多くの学派が存在し、それぞれの主義主張が異なる以上、「精神分析とは何か?」の解答など永遠に見つからない、というのがとりあえずの解答だろうか?
 私が15年前の2003年に出版した「中立性と現実-新しい精神分析 2」(岩崎学術出版社)を手に取ってみても、その頃には私の考えはすでに大方固まっていたことがわかる。「患者の役に立つのが精神分析だ・・・・」煎じ詰めればそういうことを書いた。結局はその部分は変わっていない。それから現在までに積み上げた分析家としての経験、精神療法家としての経験、そして精神科医としての日常臨床はこの基本部分に関してより確かな感覚を育ててくれたと同時に、それがその他の精神分析理論、および精神療法一般とのどこが類似していて、どこが違うのかを再確認するプロセスであった。
 従来の精神分析はその長い歴史と数多くの学術業績があり、それに対する敬意の念は変わらない。しかし理想形はそれを超えたものであり、いわば「新しい精神分析」と私がここ20年来呼び続けるものであるという気持ちも同時に強くなるばかりである。本書のタイトル「未来系の精神分析 / 精神分析新時代」はそのような意味をこめてつけたものである。
思えば私がこれまでに著した本の中で、精神分析理論に関するものといえば、2007年の「治療的柔構造」が最後であった。それ以外はもっぱら自己愛の問題や脳科学の問題を扱ったものを発表してきたのだ。そしてその間に私は「精神分析家」という自覚が徐々に薄くなり、「精神療法家」の自覚が増している気がする。それは私が理想的な姿として考える「精神分析」が、フロイトが最初に考案した「精神分析」と徐々に離れて来ているという感覚を覚えるからだ。あるいは次のような説明のし方が可能だろうか?
 私はクライエントと会っている時、それが患者であろうとバイジーであろうと、「分析的に」扱おうとは考えていないからだ。そうではなくて「相手にとって精神療法家として出来るベストなものを提供しよう」と考えている。そしてそれが「本来の精神分析的な姿勢である」と考えている。その意味で結局私は「分析的である」ということにこだわっているのであるが、それはなぜなら、精神分析は昔私が一生学び続け、そのエキスパートになることを目指した治療手段であり、学問体系だからである。精神分析だけが、私が本格的なトレーニングを受けた分野だからである。それ以上でも以下でもない。しかし私がもし認知行動療法を本格的に学んだとしても、そこできっと唱えだしたであろう「未来形の認知療法 / 認知療法新時代」は本書で扱う「未来形の精神分析 / 精神分析新時代」とその内実はあまり変わらないのではなかったのかとさえ思う。
本書でも繰り返し出てくると思うが、私にとって「未来形」を語ることは、どのような技法やプロトコールを用いるべきかについて論じることではない。「患者のベネフィット(利益)につながるために、治療者と患者の両者の心の動きをいかに検討しあうか?」である。そしてそのためにはより現実的な心のあり方を知る必要があり、それは現代的な脳科学の知見と連動していなくてはならないと考える。そしてそれはフロイトの唱えた心の理論を凌駕したものでなくてはならない。フロイト以来、脳についての知見は長足の進歩を遂げているのである。そこで本書では新しい脳科学に立脚した「新無意識」についても言及したい。そしてそれは神経学者として出発したフロイトが目指していたものとも合致するものと考える。
 本書を構成する20の章は、私が折に触れて書きたものをもとにしているが、本書を編むにあたって多くの加筆修正が加えられている。しかしおそらく同じような未来形の雰囲気を醸しているはずである。