2018年5月13日日曜日

精神分析新時代 推敲 76

 実はこの脳の中で起きていることは、ちょうど自然界で起きていることに似ている。自然界においては、ミクロなレベルではたくさんの分子が結合しては分離してという動きを目まぐるしく繰り返している。こうしてタンパクが合成されたり、遺伝子が RNA にそのコピーを作ったり、あるいはドーパミンのリセプターにドーパミンが結合したり離れたり、ということが行われている。しかし「ドーパミンのリセプターにドーパミンが付く」と簡単に言っても、そのリセプターには数限りない物質が接近しては離れる。たまたま、というよりはほんの偶然にドーパミンの分子が現れるとそれがくっつく、という途方もないプロセスが生じていることになる。いわばシンデレラの物語のように、ガラスの靴に合うシンデレラを国中探し回るようなプロセスが高速で行われていると考えて差し支えない。このように考えると自然界においても、脳においても極めて微細なレベルでの取捨選択やダーウィニズム的な競合が目まぐるしく高速で行われているかが、想像できよう。
 この脳の微小なレベルにおけるダーウィニズムのプロセスを私たちがイメージしやすいのは夢の生成のプロセスである。海馬の研究の第一人者である池谷裕二氏がその著書で次のような説明をしているのを読んで非常に興味深かった。海馬とは脳の中心付近にある主として記憶を司る部位である。日中に印象に残った出来事はこの海馬に一時的に貯蔵されていく。夢では海馬が中心になって日中の体験を引き出し、その断片をランダムに組み合わせるという作業を行っているという。例えば一つの出来事の記憶が、時系列的な ABCDE という小さなエピソードの連続として捉えられたとしよう。Aを聞いたらBを思い出して、Cという行動を行った…というような流れである。すると夢では ACE や EAB のような組み合わせが試作され、時にはそこに新しい意味が生まれたりする。もちろんそこには「ACβDα…」といった過去の出来事の断片(α、βなど)が混入するかもしれず、すると夢の内容はさらに謎めいて複雑なものになっていくのである。 
 以上述べたことを、視覚的にわかりやすくするために作成したのがこの図である。

まず頭骸骨のような絵の真ん中の二つの赤い部分が海馬である。先ほど述べた様々な記憶の断片のランダムな組み合わせが ACEEABBAD などである。その中でどれが具体的な夢の内容としてピックアップされるか、どのようにそこにダーウィン則が働くのかについてはもちろん不明である。私たちが実際に見たり、それを思い起こしたりする夢の内容が特別大きなインパクトを持っていたり、私たちにとって有益な情報を伝えてきたりするというエビデンスは得られていないであろう。もちろん夢の内容として勝ち残ったことそのものに意味を見出し、その内容の解釈を精力的に行うという立場も心理療法の世界には数多く存在し、それはまさにフロイトの立場でもあった。
この夢内容のダーウィン的な選択のプロセスは、私たちの創造的なプロセスとの関連を示唆している。例えばモーツァルトは交響曲の演奏会の当日の朝になって頭の中で楽譜のスコア(総譜)が降りてきたという。それをモーツァルトは一生懸命書き写して、演奏会の初日を成立させたと言われている。その場合、モーツァルトの脳の中で起きていることは、完成形までいくようなものを無意識で作っていたということである。するとモーツァルトの頭のなかで、曲の断片が何を競っていたかというと、そのメロディーの美しさ、審美性ということになるだろう。作曲家の頭には、高い可能性で美しいメロディーが生まれ、そしてそれが確実に勝ち残って彼の頭に上ってくるのではないかと想像する。