2018年5月22日火曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 4


この「とらわれ」、という言い方が大事なのは、特にこれを無意識的、と断っていない点である。自分でも気がつかないうちに繰り返してしまう行動や言動について、その正体を知ることが洞察である。それが無意識的かどうかについてこだわる必要はあまりない。無意識的、と断り書きを付けると、そこには抑圧された欲動やファンタジーを想定していることになる。しかしそれは無反省に浮かんでくる意識的な思考かも知れない。認知療法ではそれを「自動思考」と呼んでいるわけである。そしてここで重要なのは、その洞察の対象は、客観的な現実や真実であるという保証はないということだ。
ここで改めて洞察とは何か? 先ほどは患者さんが「ああ、そうだったのか!」と納得できるような思考、ととりあえず表現した。これをもう少し正式に言い換えると、ある思考やナラティブが、強いリアリティ(信憑性)を伴う形で得られることと言える。そしてそれがとらわれの存在を浮き彫りにし、それへの対処法を示してくれるようなものである。そのような洞察が得られるプロセスとしては、私は以下のものを考える。

    脳科学的には、幾つかの思考のネットワーク間に新たな結びつきが成立すること
これまで慣れ親しんでいた二つの思考回路に一度連絡路が開かれるとそれは半ば永続的に強化される可能性がある。それは二つの湖の間に穿たれた水路のようなものであろう。
例)
治療者:「お父さんとの関係が上司との間でも繰り返されていますね。」
患者:「そうか、そういう見方をしたことはありませんが、両者はとても似ているきがします。」
    患者の人生をよりよく説明するようなナラティブが提供されること
ある思考が他の思考や体験の意味を明確にしてくれるのであれば、それはそれを示された後は繰り返し頭に浮かび、新たな洞察として成立することになるだろう。
例)
治療者:「あなたの方がむしろ弟さんの関係の犠牲者とは言えませんか?
患者:「そうか、そういう見方もありますね。」
③ 治療者などの「別の主観」から思考が取り込まれること
自分がそのような発想を持っていなかったことでも、それが他者から与えられることが自分のそれまでの体験に新たな意味を与えるために何度も繰り返し反芻され、やがて内在化されることがある。
例)
治療者:「あなたは自分のあるがままを受け入れていいのではないですか?」
患者:「あるがままでいいんだ、という考えそのものを持ったことがなかったんです。」

なお以上の①~③を読むと、互いにかなり類似したものであることに気が付かれよう。これらの3つについては私がやや便宜的に分類したのであり、重複がかなりみられる可能性がある。

治療者ができることは「オブザベーション(コメントをすること)」である

ではこのような洞察に至るためには、治療者からのどのような介入が必要だろうか? 可能性のあるものをいくつか挙げてみる。
              解釈を通して
              直面化を通して
              明確化を通して
              「オブザベーション」を通して
              支持的介入を通して
              現実(仕事や学業上の失敗、上司、同僚からの忠告、アドバイ
 スなど)に直面して

このように列挙したのは、洞察に至る経路は様々なのであり、解釈を通してのみではないということを示したいからである。一つのシンプルな例として、「自分はあるがままを受け入れればいいのだ」という③で例示した洞察を考えてみよう。これは患者さん自身が無意識レベルで自分を否定していたことことへの解釈がなされた結果として至った洞察かもしれない。しかし患者が治療者から受け入れられるという支持的な介入から、この様な洞察を得られることもあるわけである。だから一つの洞察に対して、それに至る技法は沢山あると考えるべきであろう。ここで私はGlen Gabbardのテキストからある表を紹介したい。(図は省略)
 この図の中で左側の群が、これまで私たちが解釈に類する介入としてまとめていたものであるが、その中で私が代表としてあげたいのが、左から二番目にある「オブザベーションobservation」である。ただし表に見られるように、これは日本語訳では「観察」と訳されている。しかし英語でobserve とは、そこにいて観察し、それを伝えることまでも含む。実際英和辞典にはobservation の意味として、3.〔気付いたことの〕所見、見解とある。つまり気が付いたことをそのまま言葉で伝えるというニュアンスがあり、何かを説明しようとしたり,つなげようとしたりする努力をことさら含まないものである。その意味ではobservationの日本語訳としては「指摘」「コメント」という表現が一番近いかも知れない。治療者がobserve するとは、患者に見られる行動や発言や、感情や、治療内でのパターンを単に指摘するだけで、動機や説明には触れないままであっていいのだ。
Gabbard がこのobservation の例として同著で挙げている例は以下の通りだ。
・「あなたのお姉さんについて尋ねたとき、あなたは涙を流されましたね」
・「お帰りの際にあなたはいつも私と目を合わせるのを避けられますね」
・「お父さんに見捨てられたことに私が話をつなげようとすると,あなたはいつも主題を変更なさいますね」
これらはそれぞれがまったく異なる治療場面における治療者の介入だが、だいたい治療でどのようなことが起きていたかは想像できるであろう。そしてこれらのオブザベーションには、直面化や明確化も含まれることになる一方では、あまり解釈という感じではないことに気がつかれよう。解釈とは治療者が最初に答えを知っていて、それを患者に指摘する、というニュアンスを伴っているが、ここに挙げた例はいずれも、それよりはずっと控えめな、治療者の側から気がついたことへの指摘であり、それを問題にするかどうかの一部は患者の側に委ねられているのである。