2018年5月9日水曜日

解離の覚書 1

解離に関する全くの殴り書き的な随想だ。自分の考えを整理するだけのもの。

 解離現象とはどのようなものか、それを考えて行くと、どんどん分からなくなる。人格Aが覚えていることを、なぜBが知らないのか?これを考えていくうちに、そもそもある体験が記憶される、とはどういうことだろうかということが疑問になってくる。いや別にひとつの事柄の記憶でも良い。例えば私たちは「リンゴを思い浮かべよ」そのとき確かにリンゴの視覚イメージと聴覚イメージと味覚イメージは結びついている。リンゴを思い浮かべたときの脳の活動は、視覚野と聴覚野と味覚野とを結んだネットワークの興奮という形をとる。するとなぜそれが成立したのか。これは遥か昔に神経学者Donald Hebb が述べた以上のことを私たちは知らない。What fire together wire together. いくつかのネットワークが同時に発火をすれば、それは繋がる。脳はある部分が興奮しているとき、同時に興奮している部分を見つけ出してその間の連結を強める。もちろんこれは人間のような高等な生物だから出来るといわけではない。最も基本的な生命体がこれを行っている可能性がある。というよりはそのような形を取らないと、情報を蓄積することはできない。ネットワークにある部分に特定のインプットが起きると、独特のネットワークが興奮し、鳴り響く、ということが起きるためには、ヘッブ則は その生存のために絶対必要なのだ。ある非常に原始的な中枢神経を備えた存在。例えばCエレ君(私がつけたあだ名だ。本名は線虫の一種、Caenorhabditis elegans カエノラブディティス・エレガンス、という全然エレガントでない虫である)の数百の神経細胞には、このヘッブ則が成り立っているはずだ。だからCエレくんは、以前追いかけられて怖い思いをした敵を見たら、すぐ逃げ出すための運動が開始されるだろう。相手の知覚情報と、逃げた体験の同時発火と、それによる結びつき。その仕組みは、恐らく非常に単純なものに違いない。
このように考えると、それらのネットワークの発火が同期化しているか、ということはさほど問題がなくなるのかもしれない。ただし問題は、非常に複雑で、非常に類似した、しかし異なるネットワークが存在することが普通である。なぜ混線しないのか?