認知療法的なアクセルをどれだけ踏みこむか?
私は認知療法とは、あるいは行動療法、精神分析的な転移解釈などは、結局は「面談」という素地を保ちながら、「どれだけアクセルを踏むか」という感覚と考える。認知療法であれば、患者の思考、感情、行動パターンを探求し、治療的な解決の方向性を探るというプロセスを遂行するためには、患者の側のモティベーションと体力、精神力が必要である。他の療法に関しても同様のことが言える。それらの療法におけるいわば「技法部分」を続けるためにはそれなりのエネルギーが必要なのだ。するとたとえばフォーマルな認知療法を行うという経験を持つことは、いざとなったらそれに移行したり、その専門家を紹介するという用意を持ちながら、つまりいつでも認知療法のアクセルを踏むことができる用意を持ちながら、「面談」を行うことができるようになることと考えることが出来るだろう。
認知療法のトレーニングを経ることで踏むことが出来るようになるアクセルとはいかなるものだろうか? もちろん患者の自動思考やスキームを捉え、それを治療的に応用する能力を備えるということであろうが、具体的には患者に宿題を課したり、ノートを用いたりすることに習熟することが挙げられよう。私の精神科外来の患者さんの中には、自発的にメモやノートを持参する方は結構多い。彼らはそこに書かれた内容を読み上げたり、面談の内容を書き付けたりする。精神分析療法では、それらのことはご法度とされることが多い。治療場面で起きた生の体験を言葉で伝え合うことの意義が強調されるからだ。しかし患者にとってはこのような具体的な手続きが有効となる場合も否定できない。
結局は認知療法をどのように捉えるか、という問題は、汎用性のある精神療法をどのように定義し、トレーニングし、スーパービジョンしていくか、という大きな問題につながってくる。認知療法も、EMDR も、暴露療法も、森田療法も、効果が優れているというエビデンスがある一方では、汎用性があるとはいえない。つまりそれを適応できるケースはかなり限られてしまうということだ。すると認知療法家であることは同時に優れた「面談」もできなくてはならないことになる。
「汎用性のある精神療法」の中での認知療法的な要素
このあたりでこれまで「面談」と呼んできたものを「汎用性のある精神療法」と呼び変えよう。もちろん「汎用性のある精神分析療法」と読んでもいいくらいだが、その場合の「精神分析」とは私がかなり広い意味で用いているものなので、精神分析として伝統的なそれのイメージを持っている人には馴染まないであろうため、このような呼び方をしておく。私が雑談の一種と思われがちな「面談」にこれまでかなり肩入れしてきたのは、これが患者一般に広く通用するような精神療法を論じる上での原型となると考えるからであった。
「汎用性のある精神療法」とはいわばジェネリックな、一般的な精神療法と言えるだろう。私は認知療法のトレーニングを経験することで、この「汎用性のある精神療法」の内容を豊かに出来る面があると考えるし、それが本章の一つの結論と言える。といっても、「汎用性のある精神療法」を認知療法的に組み立てるべきである、と主張しているのではない。「汎用性のある精神療法」はいずれにせよさまざまな基本テクニックの混在にならざるを得ず、いわば道具箱のようになるはずだ。そしてその中に認知療法的なテクニックも入ってこざるを得ないということだ。
ちなみに私は「汎用性のある精神療法」に当てはまる原理は倫理則であると考えるし、そこに30の基本指針を考えて本にした(心理療法/カウンセリング 30の心得』みすず書房、2012年)。
「汎用性のある精神療法」についてもう少し述べたい。私は臨床家は「何でも屋」にならなくてはならないというつもりはない。しかしいくつかのテクニックはある程度は使えるべきであると考える。試みに少し用いてみて、それが患者に合いそうかを見ることが出来る程度の技術。それにより場合によっては自分より力になれそうな専門家を紹介することもできるだろう。臨床家が使えるべきテクニックのリストには、精神分析的精神療法も、おそらく暴露療法も、EMDRも、箱庭療法も候補としては入れるべきであろう。そしてそこに認知療法も行動療法も当然加わらなくてはならない。
精神医学やカウンセリングの世界では、学派の間の対立はよく聞く。認知療法はとかく精神分析からは敬遠される、という風に。しかしこれからの精神療法家はむしろ両方を学び、ある程度のレベルまでマスターすることを考えるべきだろう。なぜなら患者は学派を求めて療法家を訪れるわけではないからである。彼らが本当に必要なのは優れた「面談」を行うことのできる療法家なのである。
最後に
本章では、「認知療法と対話する」として、私たちが精神分析療法とは異なる種類の療法、その中でも主として認知療法について、それがいかに通常の精神療法、いわば「汎用性のある精神療法」に組み込まれるべきかについて論じた。最後の部分で少し触れたように、私はこれは「汎用性のある精神分析療法」だと考えている。なぜなら治療関係を考えつつ何が患者にとってベストとなるかを考えて治療を組み立てていくことが、今後の精神分析のあるべき姿の基本部分となると考えているからだ。そして療法家がいざとなったら踏むことの出来るアクセルは他にもたくさんある。行動療法、支持療法、暴露療法、EMDR・・・。それらの基本部分を踏まえたうえでの受身性や中立性は、それらなしの分析的な姿勢に比べてはるかに大きな力を持っているであろうと考える。