2018年4月26日木曜日

精神分析新時代 推敲 65

精神分析の分野では、米国の分析家 Irwin Hoffman が、この死生観の問題について他に類を見ないほどに透徹した議論を展開している。彼の死生学はその著書「精神分析過程における儀式と自発性 Ritual and Spontaneity(Hoffman, 1998)の第2章で主として論じられている。Hoffman はこの章のはじめに、フロイトが死について論じた個所について、その論理的な矛盾点を指摘している。フロイトは1915年の「戦争と死に関する時評」(3)で「無意識は不死を信じている」と述べているのだ。なぜなら死は決して人が想像できるものではないからだというのがその理由である。しかし「同時に死すべき運命は人の自己愛にとって最大の傷つきともなる」という主張も行なっている (ナルシシズム入門(4))。人が想像することが出来ない死を、しかし自己愛に対する最大の傷つきと考えるのはなぜか? ここがフロイトの議論の中で曖昧な点である、と Hoffman は指摘しる。そして結局彼が主張するのは、フロイトの主張の逆こそが真なのであり、無意識に追いやられるのは、死すべき運命の自覚であるというのだ。つまり人は「自分はいずれ死ぬのだ」という考えこそを抑圧しながら生きているというわけだ。こちらのほうが常識的に考えても納得のいくものだと私も考えるが、精神分析の世界では死に関するフロイトの矛盾した主張が延々と繰り返され、場合によっては死への不安はその他の無意識的な概念を覆い隠していると主張されることさえあるのだ。
Hoffman, I.Z. (1998) Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London.ホフマン、IZ 著/岡野憲一郎,小林 陵訳 精神分析過程における儀式と自発性 弁証法的-構成主義の観点. 金剛出版 2017
 さてそこから展開される Hoffman 自身の死生学は、Jean-Paul Sartre Maurice Merleanu-Ponti などの実存哲学を引きつつ、かなりの深まりを見せている。簡単に言えば抽象的な思考というのは、すでに死の要素をはらんでいるというのだ。抽象概念は無限という概念を前提とし、それは同時に死の意味を理解することでもあるというのがその理由だが、ここでは詳述は避ける。
それから Hoffman はフロイトにもどり、彼の1916年の「無常ということ」(5)という論文を取り上げている。そしてこの論文は、死についてのフロイトの考えが、実はある重要な地点にまで到達していたとしている。この「無常ということ」の英語版の原題は、“On Transience”であり、つまりは「移ろいやすさについて」というような意味である。この論文でフロイトはこんなことを言っている。「移ろいやすさの価値は、時間の中で希少であることの価値である」。そして美しいものは、それが消えていくことで、「喪の前触れ」を感じさせ、そうすることでその美しさを増すと主張し、これが詩人や芸術家の美に関する考え方と異なる点であることを強調している。フロイトは詩人や芸術家たちは、美に永遠の価値を付与しようとするというのだが、それはその通りなのだろう。詩にしても絵画にしても、それが時間とともに価値を失うものとしては創られないだろうからである。いかに永遠の美をそこに凝縮するかを彼らは常に考えているのだ。そしてフロイトの論じる美とは、それとは異なるものとして論じられているのである。
ここで少し考えて見よう。たとえば花の美しさはどうだろうか? やがて枯れてしまうから、私たちは美しく感じるのだろうか? 美しいと思った花が、実は「決して枯れない花」(たとえば精巧にできた造花)だと知った時の私たちの失望はどこからくるのだろうか? フロイトの言うように、花はやがて枯れると思うから美しいのではないだろうか?しかし考えてみれば、芸術とは、いかに美しい造花を作ることとは言えないだろうか? 美しい花を描いた絵は、結局は一種の造花ではないだろうか? しかしこのようなことを言ったら、たちまち芸術家から反発を受けるだろうから、これはあくまでも私の思い付きということにしておきたい。
ともかくもフロイトはこのようなすぐれた考察を残しながら、結局は死すべき運命への気づきを彼の精神分析理論の体系の中に組み込まなかったようである。その意味で彼の理論は反・実存主義であったと Hoffman は言うのだ。そこで彼を通してみる死生観とは、私なりにまとめると次のようなものとなる。
「死すべき運命は、常に失望や不安と対になりながらも、現在の生の価値を高める形で昇華されるべきものである。死は確かに悲劇であるが、外傷ではない。外傷は私たちを脆弱にし、ストレスに対する耐性を損なう。しかし悲劇は私たちが将来到達するであろうと自らが想像する精神の発達段階を、その一歩先まで推し進めてくれるのだ。」
ここに森田の考え方との共通性と微妙な違いも見ることが出来るだろう。森田は、「死への恐れは、生に対する欲望の裏返しである」という表現をしたと私は理解している。生への欲望があるからこそ死を恐れることになる。しかし森田のこの言い方に、私は少し突き放されるような気がするのだ。「では生への欲望を抑えることが死への恐怖の克服につながるのか?」と疑問に思ってしまうのである。その点 Hoffman の示唆はもう少しその点をクリアに示していると思えるのだ。それは「死の恐怖は、それを現在の生と切り離すことから生じる。両者を表裏のものとして見ることで『克服する』というよりはより現実的にそれを生きることが出来る」というメッセージなのである。 

3.いかに死の内面化(存在論的な二重意識の獲得)を目指すのか
最後に死の内面化をどのように目指すかについて考えたいと思う。私はそのためには毎日の生活の中で、常に以下に述べるような努力をする以外にないと考える。私たちの生は、とらわれの連続である。生きているということは雨露を凌ぎ、栄養を摂取し、冬は暖を取り夏は涼を求めるという営みの連続だが、これらは全て生への執着である。そこで過去の修行者は様々な形で日常的に死の内面化を行う努力をした。ある人は只管打座に明け暮れ、ある人は経文を唱え、ある人はお伊勢参りをし、ある人は托鉢僧や修行僧となったのだ。ただし私たちは療法家であり、人と関わるのを生業としている。そこで私が考えるのは、やはり人との関わりとの中で日々自らを確かめることができるような営みである。
 特に私が考えるのは、常に我欲を捨て、人に道を譲るという生き方である。ただしその障碍となるのが意外にも、周囲が自分に道を譲らせてくれないことが多いという事情なのだ。というのも我が国では年長者や肩書きを持った人間は、その人間性とは無関係に持ち上げられ、甘やかされるという傾向があるからだ。しかし歴史的な人物の中には、本当に「この人は我欲を捨て、徹底して他人に謙ることで死を内面化することを実践していたのではないか?」と思わせるような例がある。その一つの例が、作家により描かれた幕末のある傑人の姿である。

西郷隆盛の例
私の愛読書に池波正太郎の「人斬り半次郎」という本があるが(6)、そこに幕末期の西郷隆盛が何度も登場する。そこでの西郷はまさに死を恐れない人間として描かれている。この書の中で西郷は、当時高まりつつあった東アジアで諸国の間の緊張を和らげ、かつ自国の正当な立場を主張すべしと唱え、自分が特使となって朝鮮にわたることを申し出る。そして当時の政府内の権力者である岩倉具視や大久保利通らの反対に遭うが、それでも彼は自分の考えを主張し続けた。
 この西郷と、岩倉や大久保との対立は、少なくとも西郷にとってはいわゆる政争とはまったく違った意味合いを持っていた。政争の場合、政治家同士が腹の内を探り合い、自らの政治生命は温存しつつ、攻防を繰り広げる。お互いに政治生命を賭ける、などといっても結局負けたほうが政治家をやめることは普通はしない。ところが西郷はこの自分の主張が通らなかった場合には政府内の役職を一切捨てて、故郷の鹿児島に帰り農業に専念するという覚悟を持っていたのだ。これは決して単なる脅しやブラフではなく、真剣にそのような選択肢を持ちつつ朝鮮への特使の道を探ったのでした。西郷は健康上の問題もあり、いずれは自分の政治的な力はおろか、生命そのものが尽きることを予知している。彼はそれを恐れたり、回避しようとすることなく、むしろその時期を自らが選択したことになる。それが自らの主張が通らなければすべてを捨てて鹿児島に帰り帰農する、という行動であり、実際自分の主張を岩倉らに聞き入れられなかった西郷は、その翌朝には桐野利秋らを従えて鹿児島に引き上げてしまったのだ。
この西郷の鹿児島への帰郷は、傍目には潔い決断に見えるのであろうが、彼の頭の中ではすべてが最初から想定内であり、決断はかなり前からすでに下されていたといえよう。その意味では帰郷の時点で大きな葛藤はなかったのだ。もちろん自分の考えを大久保らに聞き入れてもらえなかった西郷が感情的になる部分も出てくる。しかし同時にそのような事態をどこかで客観視していた様子も伺える。
 池波正太郎により描かれた西郷は、Hoffman が言うような、死を見据えたうえでの生を地で行ったという印象を受ける。死を「内面化」した人の生き方の実例といっていいだろう。彼には自分の名誉も、生命さえもいつ失ってもいいという覚悟で物事に当たっているのだ。
その西郷が鹿児島に帰ってからのエピソードに、忘れがたいものがあります。それを紹介しよう。
・・・雀ヶ宮の長瀬戸という崖に挟まれた細い道で、西郷は向こうから来た百姓とぶつかってしまったことがある。二人とも馬を引いている。すれ違うことのできぬ狭い道だし、どちらかが譲って引き返さなければならない。百姓は若い。「おい、じじい」と言った。「はアい」西郷が頭を下げ、「お前さアが引き返した方が早よごわす。」とていねいに答えると「うるさい!!」百姓が怒鳴りつけて、「何言うちょっか。じじいが下がれ。おいは急ぐんじゃ。先へゆずれ、先へ引きかえせエ」わめいた。これに対して西郷は「それじゃ、引き返しもそ」若者の怒声を浴びつつ、引いた馬を後ずさりに苦労してもとに引き返したそうだ。・・・(「人斬り半次郎」(賊将編)415ページから。)

このエピソードがどこまで作者池波正太郎の脚色によるものかはわからないが、この西郷の覚悟ということと実人生の中で見せた愚直なまでの謙虚さとは実は結びついているというのが私の考えである。大いなる決意を持って物事にあたる、常に決死の覚悟で物事を選択する、ということは聞こえは勇ましいのだが、どこまで実を伴っているのかは定かではない。政治家が「不退転の決意で」「背水の陣で」「一兵卒に戻り」などと言っても、それはむなしい掛け声に過ぎないのだ。しかしそれがどの程度その人の内面からの真の決意を表すかは、彼らがどの程度各瞬間に自らの生を、死を背景にしたものとして享受できているかによる。そしてこちらのほうは極めて見えやすいことになる。その人が日常生活で生じた些細な不都合にどのように対処しているかを見ればいいことになるからだ。
4.最後に:死への備えは謙虚さの追求にあるのか
愚直なまでに謙虚だった西郷隆盛。道を譲るように乱暴に要求されてすごすご引き下がった西郷隆盛。彼に「とらわれ」はなかったのでしょうか?ここで「とらわれ」という言葉を使わせていただいていますが、私が言う「とらわれ」とは日常の些事において、死すべき運命にある自分がたまたま生きていられる事の幸せに鑑みてそれを受け入れることができない状態、生に執着している状態を意味するものとします。
 私は西郷にも捉われはあったのだろうと思います。彼が特使として朝鮮に赴くと言い出したとき、そこには多少なりとも名誉欲があり、自己愛を満たしたいという気持ちはあったはずです。しかしそれが岩倉や大久保らにより拒絶されたとき、それを受け入れて自らの政治生命を葬り去ることにほとんどためらいはなかったのです。また崖に挟まれた細い道で若い百姓に無礼な言葉をかけられたときも、一瞬はムカッとしたはずです。しかしそれを一瞬の後に収め、一介の「じじい」の身に甘んじて、若者に道を譲る。そこで彼の心に生じていたと私が想像するのが、先に述べた二重意識である。一方では揺れ動きつつ、それを遠くから見ているもう一つの意識、精神分析家なら、観察自我、observing ego と称したくなるものの存在である。
 さらに西郷隆盛の例から私たちが学ぶことが出来るのは、彼がとらわれを乗り越え、死を内面化した仕方だ。彼はそれを愚直なまでの謙虚な姿勢で示している。いつでも死すべき運命にある人間にとっては生きているだけで僥倖ということになる。すべてのプライドや名誉や見栄や外聞は余計なものということになる。その覚悟を一瞬一瞬に確認し、試す為に彼が行なっていたのが、すべての人に対して謙虚であること、自らをありのような存在として振舞うということではないだろうか? 私はこのことは瞑想を何時間も重ねたり、座禅を組んだりするよりも効果があるのではないかと思う。人は内面の変化について自分でもわからないし、他人もその人を判断できない。密教の修行を何年も積んでついに解脱したはずの高層が世間を騒がせ、サリンをまき散らし、人々を混乱に陥れるような世界に私たちは住んでいるのだ。
森田先生が考えたように、あるいは分析家ホフマンが主張しているとおり、私たちは決してとらわれから逃れられない。私たちが出来ることは、とらわれつつも、それを見つめることのできる、私が実存的な二重意識と表現したものに可能な限り近づくことだと思う。それがいわゆる死の内面化にもつながるものであろうと考える。それをいかなる形で実現するかというひとつの実例として、西郷隆盛の生き方を紹介した。徹底的に謙虚になること、それは自分が持っているものすべてが僥倖であること、実は全てを失っている状態が本来の姿であるということを思い出させてくれる。そしてそれが死の内面化へとつながるのではないだろうか。
 ただし世俗で人と交わり生きている以上、とらわれから逃れることはできない。謙虚さを持ちこたえることは自己愛との戦いでもある。ちょうど西郷隆盛が若い百姓の言葉に一瞬はムッとしたであろうように。あるいは死に際にも「死にたくない」とさめざめと泣いた森田先生のように。死ぬ間際もそしてそのような自分をどこかで見つめている二重意識を持ち続けることが、おそらく森田先生が示唆していたことではないかと考える。
参考文献) 省略