2018年4月25日水曜日

精紳分析新時代 推敲 64

第17章 死と精神分析 
初出:死生学としての森田療法(第31回日本森田療法学会 特別講演2)森田療法学会雑誌 第25巻第1号、p.1720(2014)

1.はじめに ―受容ということ

本章では「死と精神分析」というテーマを扱う。途中で森田療法やその創始者森田正馬についてしばしば言及しているが、それはもとになった論文が森田療法学会での発表原稿だからである。そのことをまずお断りしておきたい。
さて本章での私の主張を一言で表現するならば、精神分析や精神療法においては、どのような種類のものであっても、そこに治療者側の確固たる死生観が織り込まれているべきであろう、ということである。
まず最初に示したいのは、フロイトの次のような言葉である。

私が楽観主義者であるということは、ありえないことです。(しかし私は悲観主義者でもありません。)悲観主義者と違うところは、悪とか、馬鹿げたこととか、無意味なこととかに対しても心の準備が出来ているという点です。なぜなら、私はこれらのものを最初から、この世の構成要素の中に数えいれているからです。断念の術さえ心得れば、人生も結構楽しいものです。(下線は岡野による)』(フロイト:ルー・アンドレアス・サロメ宛書簡、1919年7月30日付)
このフロイトの最後の部分は、私が常々感じていることでもある。それはあきらめ、断念ということの重要さである。私は人間としても臨床家としても老齢期にあるが、この問題は年齢とともに重要さを増していると感じる。これは森田療法的にいえば、「とらわれ」の概念に深く関係しているといえる。
この諦め、諦念のテーマは、日常の臨床家としての体験にも深く関係している。日常臨床の中で私たちが受け入れなくてはならないのは、患者が望むとおりによくなっていかないということだろう。勿論時には改善を見せる人もいる。しかしたいがいの場合その改善には限界があり、多くの患者は残存する症状とともに生きていかざるを得ない。このことをどこかで受け入れない限り、患者はその苦しみを一生背負っていかなくてはならない。また臨床家としても、患者がこちらの望みどおりに治ってくれるとは限らないということをどこかで受け入れる必要があるのだ。
もう一つ私たちが手放さなくてはならないのが、治療的な野心である。私は過去にある患者から次のようなメールをいただいたことがある。
「先生にはがっかりしました。先生は研究者向きかもしれませんが、患者の気持ちは分かっていないと思います。」

 もちろんこのようなメールや手紙はあまり頻繁にいただくわけではないために、私にとっては印象深いものとなっているわけだが、一部の患者にとって私がとんでもない精神科医であるということを、私が受け入れることが必要であるということをこのメールは物語っている。それはつらいことであるのは確かだ。しかしその文面(もちろん個人情報保護のために必要な変更は加えてあるが)をこのような形で公にできるのは、実は私はこれらのメッセージにあまり深刻に動揺しているわけではないということだと思う。そしてそのような心境に少しでもなれるとしたら、私の精神分析のトレーニングがある程度関わっていることになる。

受容と精神分析理論

 私は精神分析家であるが、分析的な概念の中で、この諦念の問題に極めて大きく関わっているのが、いわゆる逆転移の考え方であるように思う。逆転移には様々な定義があるが、一言で表現するならば、それは治療者が持っている邪念のようなものだ。(もちろん邪念を持ってはいけない、という趣旨でこの言葉を使っているわけではない。)通常の場合、患者の状態の改善は治療者にとっても喜ばしいことだ。しかし治療者の喜びの一部は、自分が適切な治療を行ったから患者がよくなったのだと考えることからも来ている。これはいわば治療者が自分の自己愛を満たしたい、という部分であり、患者の症状の改善を純粋に喜ぶ気持ちとは異なるものなのだ。
 私自身の一つの例をあげよう。20年以上前に米国で精神分析を行ったMさん(中年の男性)という方がいた。Mさんは分析治療を開始してしばらくして、うつ症状がかなり改善した。私はそれを分析の成果だと思ったのだ。そこでMさんにうつが改善した理由をどう考えるかについて尋ねてみた。すると彼は「N先生が、抗うつ剤に加えて最近炭酸リチウムを処方してくれるようになってから、急に気分が改善したのだと思います」と話したのだ。(N先生とはMさんの薬物療法を担当してくれていた精神科医である。)それを聞いて私はがっかりしたのだが、そのような自分の反応を興味深く感じてもいた。この「がっかり」の分が私の逆転移、つまり邪念による分というわけである。患者の気分が改善したことは、患者とともに喜ぶべきことである。しかしそれは自分の治療のせいではなかったと思い、その分私はがっかりしたのだ。
ところでMさんの分析家である私は、炭酸リチウムの話を聞いてがっかりしてはいけなかったのだろうか? 分析家として修業を積むことでこのような邪念を一切排除することができるようになるのだろうか? 私にはその可能性は非常に低いように思う。それに炭酸リチウムの話を聞いてもし私が全くがっかりしなかったとしたら、おそらく自分自身の治療に対する思い入れはかなり薄いことになり、果たしてそのような状態で患者を治療しようという意欲がわくのかどうかも疑問かもしれないとさえ思う。
 精神分析の世界における最近の逆転移の考え方は、フロイトの時代の「逆転移は克服せよ」という考え方とはずいぶん変わって来ている。フロイトは「逆転移は持つだけでも良くない、なぜならそれはその人が教育分析や自己分析により無意識を克服していないからだ」と考えた。しかしその後の分析家たちは、むしろ逆転移は不可避的なものであり、それに気が付き、それを治療的に用いるという姿勢こそが大事だと強調するようになった。すなわち治療者の個人的な感情は決して回避することができず、むしろそれを意識して、対処できることが大事であるという考え方である。治療者の個人的な感情を敏感に反応する心の針に例えると、むしろ心の針が振れる状態でいるのは大切なのであり、ただそれが振り切れたりせず、早く中心付近に戻ること、そしてその心の針の触れをどこかでしっかり見守っている目を持つということが大切なのである。そしてその意味では自分の心に対する高い感性と、それを見守る観察自我という二重意識の状態を持つことと考えられるかもしれない。
さてこのような逆転移に関する考え方を森田療法的に捉えるならばどうなるのだろうか?すでに述べたように、私たちは治療者という立場にある以上、自分の治療により患者によくなってほしいと願う。それは森田療法でも精神分析療法でも、CBTでも同じであろう。患者が良くなることで感謝され、治療者としてのプライドも保たれる。患者の症状の改善を願うという私たちの願望は治療者としては大切な部分なのだ。
 しかしこれは同時に治療において私たちは常にとらわれを体験しているということでもある。なぜなら症状を改善したいという願望の一部は、まさに患者が陥っているとらわれが投影されたものである。そしてそこにさらに、治療者のプライドというもう一つのとらわれが付加されているのだ。
 しかし逆転移についての考えが教えてくれるのは、私たちは患者によくなってもらいたいというとらわれを捨てようとするのではなく、そのとらわれを見つめている部分を持っていなくてはならないことなのであろう。その見つめている部分は、患者はよくならないかもしれない、自分はこの患者を助けることはできないかもしれないという事実を受容している部分である。これが森田が言った「症状と戦うな」ということの真意だと思うが、それは「症状と戦わないことが症状と戦うことだよ」という禅問答にも似た狡知ではなく、先ほども述べた二重意識、すなわちとらわれを持つ部分と、そのとらわれにより一瞬でも苦しんでいる自分を、醒めてた目で見つめている部分ということではないだろうか。

 ここで少しうがった言い方をするならば、森田の教えは「とらわれを捨てよ」、ではなく「とらわれに対するとらわれを捨てよ」だったのだと考えることで、森田療法と精神分析の逆転移の概念はつながるのではないかと思う。とらわれにとらわれる、とは分析的には、逆転移を捨てよ、ということだが、それは治療者が人間として生きている限りは無理な注文なのだ。そしてこの自分のあり方に対して同時に別の視線を持つということが、後に述べる実存的な二重意識ということにつながるのである。

2.生への捉われと死への備え
とらわれや受容の問題を考える時、やはり最終的に残ることは死の問題である。とらわれの究極は、やはり生へのとらわれや死の回避に関するものだろう。治療により症状は完全には消えない、という受け入れをさらに突き詰めていくと、最終的にはその症状を持っている自分という存在が消えてしまうということの受け入れ、つまりは死の受け入れというテーマにつながっていくであろう。そしてそれは森田が常に考えていたことでもある。私は一つの精神療法が患者を支えるためには、そこにはやはりしっかりとした死生学があってしかるべきだと思う。
森田が死の恐怖について広く論じていることはいまさら私が言う必要はない。死の恐怖をいかに克服するかというテーマが森田療法の始まりにあった重要なテーマだったのだ。森田療法を編み出すことにより、森田先生は死を克服できたのであろうか? 
この点に関して少し詳しく見てみよう。ある論文から引用する。
「森田正馬は,死をひかえた自分自身の赤裸々な姿を,生身の教材として患者や弟子たちに見せることによって,今日言うところのデス・エジュケーションをおこなった人である。彼は1938年に肺結核で世を去ったが,死期が近づくと,死の恐怖に苛まれ「死にたくない,死にたくない」と言ってさめざめと泣いた。そして病床に付き添った弟子たちに「死ぬのはこわい。だから私はこわがったり,泣いたりしながら死んでいく。名僧のようには死なない」と言った。いまわの際には弟子たちに「凡人の死をよく見ておきなさい」と言って「心細い」と泣きながら逝ったと伝えられている。
弟子のひとり長谷川は,次のような追悼の文をしるしている。「先生は命旦夕に迫られることを知られつつも,尚生きんとする努力に燃え,苦るしい息づかひで僕は必死ぢゃ,一生懸命ぢゃ,駄目と見て治療してくれるな』と悲痛な叫びを発せられた。『平素から如何に生に執着してひざまづくか,僕の臨終を見て貰いたい』と仰せられる先生であった」。虚偽,虚飾なく,生の欲望と死の恐怖を,最後まで実証しつつ死んでいったのである。(岡本重慶(1))