2018年4月18日水曜日

精神分析新時代 推敲 59


16章 治療的柔構造の発展形
治療的柔構造の発展形 ― 精神療法の「強度」のスペクトラム

『週一回サイコセラピー序説 創元社 2017年』 所収 

初めに
フロイトは一世紀以上前に、週6回の精神分析を始めた。それは直ちに精神分析療法のゆるぎないスタンダードになった。現在でも我が国の精神分析協会は週4回以上(さすがにフロイトのように週6回というのはあまりにも非現実的である)の高頻度でのセッション以外は正式な精神分析とは認定しない。ただし週4回とはかなりの高頻度である。しかも期間は年単位である。実際にこの頻度を維持するためには、分析家と患者の双方がそれ相応の生活スタイルを作りあげ、それを維持する必要がある。そして当然ながら、それが出来ない場合も多い。精神分析の頻度をもう少し下げられないのか? 治療期間を短くできないのか? 週一回というのは精神分析と呼んではいけないのか? そのような疑問は精神分析の一つの課題として当然持ち上がってくる。
週一度の精神分析、という当時としては大胆な発想を、それも1930年代に持ったのが、我が国の精神分析の草分け的存在であった古沢平作であった。1932年から33年にかけて古沢はウィーンに留学し、フロイトに直接面会をし、フロイトの弟子の Richard Sterba から教育分析を受けた。その後精神分析を持ち帰った古沢は、わが国で週一回の精神分析を始め、それが私たちの一つのスタンダードになったという経緯がある。
 
そして1993年にいわゆる「アムステルダム・ショック」があった。これは日本でのそのような慣習が国際精神分析協会の知るところとなり、改善命令を受けたという一つの事件であるる。その後はわが国でも国際基準に準じた形で精神分析のトレーニングシステムを整備し、4回以上の、原則的にカウチを用いた構造を精神分析と呼ぶようになった。「週一回でもいいのではないか?」という議論は、事実上棚上げ状態になり、しかし精神分析以外の世界では週一回がスタンダードになるという二重構造が成立した。そしてそのような機運の中で、最近北山修監修の「
週一回サイコセラピー序説(創元社 2017年)が出版された。本章はそこで掲載された論文をもとにしたものである。 
ところでこの本の「週一回サイコセラピー」というテーマは、私にはどうも「謝罪的 apologetic 」なニュアンスを帯びているように思える。「精神分析は本当は週に四回でなくてはならないが、週に一度だってそれなりに意味があります。でも週に一度であるという立場をわきまえていますよ、もちろん正式な精神分析とは言えません、分かっています。」というニュアンスである。しかしそれは同時に一種の戒めでもある。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ。」という一種の超自我的な響きがあるのだ。さらにこれは時間についても言える。一回50分、ないしは45分以上のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ、というメッセージが込められている。
 私は性格上あらゆる決まり事、特に暗黙の裡の決まり事に対して、疑う傾向がある。というよりそれに暗に従ってしまいそうになる自分に対する違和感というべきだろうか。無意識レベルでは付和雷同型で、私は元来権力に弱いのだろう。決まりに反感を覚えるのは、その反動形成だと思う。もちろん何にでも反対するというのではなくて、現実と遊離している決まりごとに対して苛立つ。現実を教えてくれる者にはむしろ感謝の気持ちが湧く。だから私はノンフィクションや自然科学に関しては極めて強い親和性を感じるのだ。心理の世界では脳科学がそれに相当する。まあ、話を元に戻そう。私は「週一度、50分でなくてはならぬ」に反発を感じるのだ。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれる。週回は私は実行しているし、それを理想化する部分が確かに私の中でもある。しかし私が持っている患者さんの多くが、それを満たさない以上、この原則は私にとって非常に不都合なものでもあるのだ。
 先ず私の立場を表明しよう。私の立場は精神分析家であり、そして精神科医でもある。精神分析家としての私は、週に4回の分析のセッションも行っているし、週に一度50分の分析的療法も行っている。しかし二週間に一度の方も多い。また週二日の精神科外来では一日40人強のペースで患者さんと会ってもいる。その上で言えることは、多くの精神療法的なアプローチを行う必要のあるケースと、私は週一度50分のペースでは会えていないということだ。精神科の外来では一部のケースに毎週、ないし二週に一度20分ないし30分会うのが限度である。そしてこの一回に50分取れないという事情は実は精神科医である私だけではない。私は心理士さんと組んでプラクティスを行っているが、事実上通院精神療法の本体部分は彼女たちにお願いしていることになる。そしてそれは毎週一回50分ではとてもまわって行かない。私の患者さんの大部分は定期的な精神療法を必要としている方々である。そしてその数の多さを考えた場合には、一時間に二人はこなしていただかなくてはならないというのが現状である。更には料金のこともある。心理士が一時間会うためには8000円程度の料金がスタンダードだが、それを毎週払いきれる患者さんの数は非常に限られているのだ。
このように私の理想とする精神科医と心理士の共働では、12週間に一度、30分のセッションというのは、事実上のスタンダードなのである。これは私が知っているもう一つの世界、すなわちトラウマティック・ストレス学会で出会う精神科医の先生方も言っていることである。「『通院精神療法』(健康保険で決められた、保険のきく精神療法)を行う場合は、二週に一度30分が限度である」というのが彼らの大部分が持っている印象である。二週に一度30分、というスタンダードはこうして事実上精神科医の間に存在するのであるが、だれもそれを精神分析的とは呼んでくれない。
でも、みなさん首をかしげるかもしれないが、私は大まじめで、二週に一度、30分の分析的な精神療法をやっているつもりなのである。もちろんそれは週4回、ないし週一回50分と比べて、ややパワー不足という印象は否めないだろう。たとえて言えば、精神分析という4輪駆動や、週一度というSUVほどには走れないのだ。でも軽自動車くらいの走りはしている自負はあるし、精神分析的な治療という道を、それなりにトコトコと走っている気がする。私も「それならば運転できますよ」、と思っているし、患者さんも「それくらいならガソリン代が払えますよ」、と言ってくれる。私は軽自動車で多くの患者さんと出会って、とても満足しているのだ。
 どうして私はそのように感じるのだろうか?それは私はその構造いかんにかかわらず、同じような心の動かし方をし、同じような体験がそこに成立していると考えるからである。このことについてもう少し順序立てて説明しよう。