2018年4月17日火曜日

精神分析新時代 推敲 58


第10章    解離の病理としてのBPD
初出:柴山雅俊、松本雅彦編:解離の病理自己・世界・時代 岩崎学術出版社 2012
前章で論じた通り、境界性パーソナリティ障害(borderline personality disorder, 以下、BPD)という概念の由来は精神分析であった。そして最近それとの関連がしばしば論じられているのが、解離性障害、特に解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下、DID)である。こちらの解離の方は、精神分析の本流からは長い間距離が置かれていたが、近年ようやく分析的な解離理論が語られるようになってきているという事情がある。このBPDDIDも、いずれもが精神疾患として認められ、精神分析の場面にクライエントとして登場する可能性が大きい以上、この両者の関係を整理しておくことは大切である。ただしこの両者の関係は複雑であり、また学会での定説も確立していない。しかしそれを前提の上で言えば、BPDDIDは、その病態としては、ある意味では正反対なものとして捉えるべきであるというのが私の立場である。
 ちなみに欧米の文献は、両者の深い関連性を強調する傾向にある。もともとは両者は基本的に別物と考えられ、特別比較されることはなかった。しかし最近ではDIDBPDは同類であるという主張、あるいはBPDと解離性障害は全体としてトラウマ関連障害としてまとめあげられるべきであるという意見、そしてBPDに特有の機制とされるスプリッティングは解離の一種であるという主張が見られるのである。さらにはDID72%BPDの診断を満たすという疫学的なデータも報告されている(Sar, et al 2006)。私自身の臨床からも、解離性障害とBPDが混同されやすい傾向は感じており、また両者の病理が混在しているようなケースに出会い戸惑うこともまれではない。そのためこのテーマは本書で章を設けて論じる価値があるものと考える。
1.従来の文献から
解離性障害、特にDIDBPDとの比較について、私自身はかつて何度か論じたことがある。そこでは対照表を作るまでしてDIDBPDの違いを強調してある。
 そもそもBPDと解離症状との深い関連性については、米国の精神医学の世界ではいわば公認されている。DSM-5(American Psychiatric Association,2013)のBPDの診断基準の第9項目には「一過性のストレス関連性の被害念慮または重篤な解離症状」(傍点強調は岡野)が掲げられているからである。ただしこの項目を満たすことはBPDの診断の必要条件ではない。つまり解離症状を伴わないBPDも当然あることになる。
 この解離症状をDIDBPDの第一の接点とした場合、それ以外にも両者には二つの接点が考えられる。それらはスプリッティングの機制、そしてリストカット等の自傷行為である。結論から言えば、以上の三つの特徴はBPDDIDの両者に共通して見られることが多いが、スプリッティングにより分裂排除された心的内容が、投影や外在化により外に排出されるか否かにより、両者の臨床的な現れ方は全く異なる形をとると考えられるのだ。
精神病様症状と解離 
  BPDの症例においてしばしば、神経症レベルより重篤な病態を思わせる症状が見られることは、従来から論じられて来た。米国でBPDの概念が提唱されるようになった194050年代は、精神疾患に対する精神分析の応用が様々に試みられたが、一見神経症圏にある患者が、カウチの上で退行を起こして関係被害念慮や異なる自我状態の出現や、離人、非現実体験等の所見を見せることがしばしば報告されるようになった。後の見地からはそれらは解離性の症状として理解が可能であるが、当時はそれらは「精神病様症状psychotic-like symptoms」として扱われた。つまり統合失調症に見られるような症状に類似するという意味である。これは当時主流であった精神医学が、解離の概念をその語彙としては事実上持たなかったためである。実際Adolf Sternや Robert KnightOtto KernbergなどのBPDに関する主要文献は、「解離」や「(性的)外傷」についての記述はほぼ皆無であった(Stone, 1986)。この事情を理解するためには、BPDの概念が生まれた背景を理解しなくてはならない。BPDの概念は前世紀の前半に精神分析的な土壌で生まれたが、そこでは自我の機能レベルを神経症水準と精神病水準に大別する伝統があった。そもそもBPDの「境界borderline」も、その患者が両者の境界線上に存在するという理解を反映していたのである。そしてその概念が形成されるうえで、解離の概念が入り込む隙は事実上なかったのだ。 
 やがて1970年代になり、精神科領域における外傷理論が盛んになったが、それとともに従来のBPDの「精神病様症状」も解離性の症状として捉え直されるようになった。それはBPDそのものを外傷性の障害として捉える動きとも連動していた。なぜならすでに解離性症状は疫学的に外傷との関連が論じられつつあったからである。BPDの中核的な症状の中に解離症状を見出すことは、BPDPTSDなどの外傷関連疾患と同列に扱うことが出来るという可能性を同時に示唆していたのだ。そしてそこで抽出されることになった解離症状の多くは、かつて精神病様症状として理解されたものと、事実上同じものだったのである。先ほど述べたDSM-IVBPDの第9項目はそのような背景で生まれたことになる。ただしその中の「一過性の被害念慮」については、解離性障害における訴えとしては典型的とはいえず、むしろ後述のスプリッティングの機制と関連しているものと考えられる。以上を多少なりとも図式化するならば、以下のようになろう。
  従来記載されてきたBPDの精神病様症状 ⇒ 解離性症状+被害念慮 

スプリッティングと解離 
BPDDIDの臨床像を比較した場合、両者の共通点と相違点は、それらの障害において主として用いられる機制、つまりスプリッティングと解離の共通点と相違点に帰着されるべきであろう。そこでまずBPDに見られるスプリッティングについてであるが、それは他者イメージや自己イメージを良いものと悪いものに極端に分割してしまう心の働きといえる。彼らはしばしば他者を悪意ある、迫害的で攻撃的な人とみなしてそれに対して被害念慮を持ったり、逆に善意に満ちて優しく、優れた人として極端に理想化したりする。そして同様の脱価値化や理想化傾向は自己像にも見られる。
 ただし患者の臨床像の中でもっとも「ボーダーライン的」なのは、それを他者への非難や攻撃や自傷行為などの行動で表現してしまうことである。その行動はしばしば唐突で衝動的であり、その背後には、患者の深刻な不安や恐怖および極端な気分の変動がうかがえる。その苦しさから世界を分割して行動に表現するという事情が理解されるのだ。つまり患者の行動化は、彼らの根幹にある不安感や空虚さの防衛として動員されるものであるが、この様な理解は、Gerald Adler (1985)が提起した重要なテーマであった。
ところで相手をよい、悪い、あるいは敵か味方かに分ける傾向は、程度の差こそあれ、私たちが日常的に行なうことでもある。時にはそれに従って実際に行動してしまうこともあり、それをかつて私は、一般人にも見られる「ボーダーライン反応」(岡野、アラカルト、2006)と呼んだわけである。BPDにおいてはこれがより頻繁にかつ激しい形で表されるのである。つまりBPDにおけるスプリッティングは、投影や外在化により頻繁に表現されることが、その臨床上の特徴なのである。
 それでは逆に「投影や外在化されないスプリッティング」というものを考えた場合はどうなるか?それはむしろ解離の性質に近いといえるというのが私の見解である。DIDに見られる解離の機制はBPDのスプリッティングとはかなり様子が異なる。たとえば男性に接近されると性的に奔放な人格が出てきてそれに対応する、といったように、DIDにおいて何よりも特徴的なのは、それがあたかも外界からのストレスに迎合する形で生じ、患者中ですべて処理されてしまうということである。一般にBPDと解離のスプリッティングとは、その表現のされ方が逆である。前者は相手の侵入的な行為に対して、それに向かい、攻撃する形で生じる。それに対して後者は緊急に生じた外的な出来事に対して迎合し、ストレスを自分の内側に取り込み、自らの状態を変えることでそれに対処するのである。
 このような意味でのBPDDDにおけるスプリッティングの違いについて、Stephen Marmer (1991)は「BPDは対象をスプリッティングし、解離は自己をスプリッティングする傾向にある」と明快に述べている。
解離と秘密、及び罪悪感
 上述のごとく解離の機制を、スプリッティングが生じているにもかかわらず投影の機制が欠如し、ないし抑制されている場合に生み出され、ないし促進されるものと考えてみよう。その場合どのような生育プロセスが考えられるのだろうか?
 まずRichard KluftDIDに関する4因子説(1984)を引くまでもなく、生まれつきの解離傾向はDIDの発症にとって非常に大きな意味を持つ。しかしそれだけではなく、その発症には生育環境の影響を無視できない。そこで決め手となると考えられるのは、虐待者により虐待の事実に関して秘密を守ることを強制されたり、いわれのない罪悪感を植え付けられたりするという場合である。近親者による長期にわたる性的虐待が生じている場合、虐待者はしばしば「もし誰かに話したらただではおかないぞ」などと脅す。あるいは性的虐待を行う以外の場面で過度に優しくふるまったり、「おまえが子供のくせに先に誘惑したんだぞ」と罪悪感を植えつけたりする。これらの事情はいずれも子供の口を封じ、虐待者を非難したり、虐待の事実を客観的に認識したりする機会を奪うのである。
 以下に述べるように解離性障害の生育環境にはさまざまな状況が考えられ、単純にこれらの「対人トラウマinterpersonal trauma」(CSA,CPA、ネグレクトなどの総称)が原因とはいえないが、少なくとも、これらの場合には、投影の抑制は極めて強烈な形で生じるであろう。そしてそれを受け入れて育つことで解離症状を起こすようになった患者は、外在化を主症状とするBPDとは別ものと考えてもおかしくないであろう。
スプリッティングと解離の相互関係

 上記のような考察に基づけば、BPDDIDの病理はスプリッティングのメカニズムを共有しているものの、臨床像は非常に異なるものとなるであろう。ではなぜDID70パーセントがBPDの診断基準をも満たすなどの報告(Horevitz, 1984)が得られるのだろうか。そこには理論上三つの可能性が考えられる。
 第一は、DIDBPDと「誤診」されている場合である。DIDにおいては、それぞれの交代人格の持つ雰囲気、ふるまいないしは対象関係のあり方は互いにかなり異なる。異なる人格が前後して現われた場合は、BPDに特有の二つの自己イメージの共存と誤解されるということが生じかねないだろう。
 第二には、DIDBPDが「合併」している可能性である。つまりはDIDにおける特定の人格の振るまいそのものが、極めて「ボーダーライン的」である場合である。
 第三の可能性はより複雑な問題を含む。それはDIDBPDが同じ病理の異なる表現形態である可能性である。この場合、DIDのみならずBPDもまたトラウマ由来の障害とみなすことになる。これは Judith Herman1990)らの提唱した複合型PTSDの概念に顕著に見られる立場である。
 しかし私個人としては、この第三の見方を極端に推し進めた場合は問題が生じるであろうと考える。BPDはあくまでも多因子的に生じ、そのうち深刻な幼児期の外傷体験を持つ人の占める割合は確かに大きいものの、それがBPDの病理を生む必要十分条件ではないからである。
 2DIDBPDとの関連性に関する疫学的研究
以上はDIDBPDとの関連についての理論的な考察であったが、次にこの問題に関する疫学的な研究について触れたい。これについては従来からBPDの疫学的な研究を精力的におこなっているMary Zanarini (2009)の報告が参考となる。それによるといくつかの研究が、BPDの患者の多くが離人感や非現実体験などの解離性症状を体験していると報告している。たとえばChopraの研究によれば、BPD92%が非現実体験を、85%が離人体験を持つ (Zanarini, et al. 2009)が、これは他の多くの同様の研究によっても支持されている。
 また最近になりDES(解離体験尺度)が研究目的で頻繁に用いられるようになり、精神疾患と解離症状との関係はより広く研究されるようになってきている。そしてBPDの患者にDESを施した際、一般に高い値が得られるということが報告されている。