2018年4月16日月曜日

精神分析新時代 推敲 57

第10章 ボーダーラインパーソナリティ障害を分析的に理解する 
初出:医原性という視点からの境界性パーソナリティ障害(こころの科学154号 境界性パーソナリティ障 害 岡崎祐士 (編集), 青木省三 (編集), 白波瀬丈一郎 (編集) 2010年 所収)

はじめに

ボーダーラインパーソナリティ障害(以下、「BPD」と略記する)という概念は、そもそも精神分析の世界で確立された概念である。現代の精神医学において精神分析的な用語は徐々に姿を消しつつあるが、BPDだけはしっかり確率された概念であり、それが揺るぐ気配はない。しかし一般精神医学で扱われるようになり、そこには様々な問題が生じている。その事情を十分に理解するためには、いったん精神分析の土台を離れる必要があるだろう。

本章では特にBPDの「医原性」というテーマについて論じる。これは、精神医学において扱われるようになった、言わば疾患概念としてのBPDが、医師ないしは治療者により二次的、人工的に作り上げられてしまう可能性があるという事情を指す。ただしここでいう「作り上げられる」には、以下に述べるように実際の病理が作られてしまうという意味と同時に、もともとあった病理がさらに悪化したり、実際はBPDとはいえないものが、そのように誤診ないし誤認されてしまったりするという場合も含むことにする。

BPDの臨床を考える上で、この医原性の問題は現代の精神医学における非常に重要なテーマである。しかしこの問題はまた、BPD という概念が精神分析の枠組みを超えて一般に知られるようになった際にすでに担い始めていたネガティブなイメージや、差別的なニュアンスとも関係していた。歴史的には、類似の例として「ヒステリー」の概念があげられるだろう。ヒステリーは「本当の病気ではないもの」、「演技」、「詐病」、あるいは「女性特有の障害」として、やや侮蔑的な意味で用いられたという経緯があり、治療者側のそのような偏見が、ヒステリーという診断の下され方に大きく影響していた可能性がある。そして現代においては BPD が同様の役割を背負わされているというニュアンスがあるのだ(Herman,1990)

Herman, J.L. (1990) : Trauma and Recovery. Basic Books. New York. 中井久夫訳(1999) :心的外傷と回復. みすず書房、東京

BPD の患者は治療者の間でしばしば「厄介者」のように扱われる傾向にある。スタッフ同士の会話の中で「あの人はボーダーだね」という表現がなされる場合は、奇抜で過剰な感情表現や行動、治療者への批判的態度、自傷行為などのために扱いが難しいケースを指す傾向にある。その場合その患者が厳密な意味でBPD の診断基準を満たしているかどうかはあまり問われないのだ。その場合治療者の主観がBPD の診断や理解に非常に大きな影響を与えているということになる。そしてそれがBPD が「医原性」に、すなわち人工的に作りあげられたり、治療者のかかわりがその症状をかえって悪化させたりするという問題を生んでいると考えられる。それはBPDを治療する環境を著しく阻害することにもつながりかねない。この問題についてもう少し詳しく論じるにあたり、筆者自身が BPD について、論じてきた内容に立ち戻りたい。筆者はかつて「ボーダーライン反応」という考え方を示したことがある(岡野、2006)。そこでの筆者の主張は、以下のとおりであった。

BPD は私たちが持っている、対人関係上の一種の反応形式が誇張されたケースである。人はみな心のどこかに、「自分は生きている価値などないのではないか?自分はだれからも望まれたり愛されたりしていないのではないか?」という疑いを持ち、日ごろはそれを否認しながら生きている。しかし時々人から裏切られたり、仕事で失敗を繰り返したりした際に、この疑いが再燃する。すると人は不安に耐えられずに、自分を受け入れない人々を攻撃したり、他人にしがみつき、つなぎとめたりすることに全力を奮うのである (P. )。

簡単にいえば、人はだれでも精神的に危機的状況ではBPD 的にふるまう可能性がある、という主張である。このBPD的な振る舞いは、いわゆる「原始反応」にもなぞらえることができるであろう。身体的な侵襲に曝された際には、人は理性的な判断に従う代わりに、より本能に根差した反応を見せる。その代表がいわゆる「闘争逃避反応」(Cannon, 1915) であるが、ボーダーライン反応もそれとニュアンスが似ている。人は精神的な危機状況に立たされた時に、それを回避するために、結果を省みない唐突な行動を起こすのだ。ただし 闘争逃避反応が 天敵への反応だとすると、ボーダーライン反応においては対人関係における危機、例えば恥をかかされる体験、人に去られる体験、あるいは対人関係上の外傷一般への反応として生じることになる。

この問題にどうして医原性のテーマが絡むかといえば、この対人関係における危機は、治療者患者関係の中でも、しばしば尖鋭化された形で再現される可能性があるからである。そして治療者はまた、その患者に診断を下す一番身近な距離にあると言えるのである。

分析家、ないしは治療者という名の権威者

「医師という仕事は少し経験を積むと、診察室の癖が身について、相手を少々見下す姿勢になりやすい」とは、ある熟練の精神科医の言葉である(笠原、2007) 。そしてこのことは医者に限らず、臨床現場で患者に向きあう心理士や看護師等の治療者一般についてもかなりの程度言えることだろう。治療者は自分でも意識しないうちに、患者より高い立場の人間として、すなわち権威者としてふるまうようになる事が多い。それにつれて治療者の自己愛が膨らんでいくと、患者が示す僅かな抵抗や反発も、自分に対する挑戦や、自分のプライドを傷つける行為に感じられ、それが治療者の心に恥や怒りの感情をさそうことがある。
 このような治療者の感情的な反応は、精神分析的には逆転移感情として理解し、処理すべきものといえる。しかしこれについて治療者自身の気付きや自覚が十分でないと、治療者はそれを行動化により表現してしまう可能性が高まる。例えば治療者は「おとなしく私の治療方針を受け入れないと、あなたとの治療を中止する」というメッセージを暗に与えることになるかもしれない。するとそれは患者の側に深刻な怒りや恐れの感情を生み、患者に先述の「ボーダーライン反応」を引き起こすかもしれない。それを見て治療者は患者がいよいよ実際のBPDであることを確信してしまうこともある。このようなプロセスを経て生まれた「BPD患者」はまさに医原性のものと言えるだろう。

臨床場面でよく聞く言葉に、「操作的 manipulative 」がある。これは「あの患者はあの看護師に私の悪口を言って、私を悪者にしようとしている。操作的な態度だ。」という風に使われる。そして同じような文脈でやはりよく聞くのが、「スプリッティング splitting 」である。こちらは「患者は治療チームを自分の敵と味方にスプリットしようとしている」という風に使う。どちらも患者の振舞いを端的に抽出していると言えなくもないが、同時にこれらの言葉ほど濫用されるものはない。

筆者は日頃学生や心理療法家たちに「患者さんの操作的態度とか、スプリッティングとか言うが、操作やスプリッティングを患者にされてしまう側にも問題がありますよ」と言うことが多い。治療者は自分が患者に感情的に動かされるような気がして不安に感じた時に、「あの患者は操作しようとしている、だからボーダーラインだ」、と考える傾向にある。このような概念を多用する治療者には、実は操作やスプリッティングはする側とされる側があって初めて成立するのだ、という視点が希薄なようである。というのも治療者の方がどっしりと構えていれば、簡単に操作され動かされる筈はなく、「この人は操作的だ」、というような発想もそれだけ少なくなるからだ。

たとえば小さい子供が父親に対して「これ買ってくれないと、もうパパと口なんかきかないからね。」とか「パパなんて嫌い。ママなら買ってくれるって言っていたから、ママにきいてみる」と言ったとしよう。しかし「この子はすでに5歳で、親を操作しようとしている。実に末恐ろしい・・・。」などとは思わないだろう。それは親がそのような状況が生じるのを十分に予想でき、余裕をもって対応できるからだ。そのような子供の「操作的」な意図をあまり問題にする必要がないからだ。ところが治療者の方がその余裕が奪われ、実際に患者さんの望むとおりに動いてしまたことに気がつくと、たちまち患者さんのことを「ボーダーラインだ!」と判断することになるのだ。

治療構造と医原性のBPD

伝統的な精神分析理論に従った教育を受けた治療者は、結果的に医原性のBPDを生む関わりをしてしまう可能性も指摘されている。この点は後に見る Gunderson や Fonagy らの主張に通じている。そしてそこでしばしば問題となるのが、治療構造の概念である。

精神分析において特に価値がおかれるいくつかの概念があるが、治療構造はそのひとつである。フロイトがその概念の基本を提出し、わが国では故・小此木を中心に論じられた治療構造 (4) の概念は、分析的な精神療法において必須であり、患者および治療者に安全で治療的な環境を提供するものとして理解されている。

もちろん治療構造自体があまりに硬直化したものである場合には、それが非治療的となりうる、という主張を受け入れる治療者は少なくないであろう。しかし治療構造自体があいまいで、境界が不鮮明だったり、それを守るべき治療者の態度にブレが生じた場合の弊害に関する主張に比べれば、ほとんど聞かれないのが現状であろう。

治療構造論をライフワークの一つとした小此木の生前の言葉に「僕は、治療構造をちゃんと守らないところがあるから、あえてあのような理論を作り、自らを戒めたのだ。」というものがあった。私はこのことを本人から聞いたつもりだが、より先生に近かったお弟子さんたちは、先生本人ではなく、彼らがそう言っていたという話である。今となっては確かめようがない。いずれにせよこの言葉に見られるのは、やはり治療構造はきちんと定め、それを遵守することが最善であるという考え方であろう。しかしこの治療構造の重要さを強調する分だけ、治療構造を遵守できない、あるいはその維持に抵抗を示す患者を問題視し、そこに病理性を見出す傾向も強くなる。

治療構造を重視する臨床家に大きな葛藤を生むのが、患者の求めに従う形で、それまで保ってきた治療構造に変更や例外を設けることである。ある患者さんが通常の定期的な面接の枠組み以外に突然現われ、治療者に面談を要望したとしよう。何か特別の事情があるらしいことが伺える。そのような際に分析的なオリエンテーションを重視する治療者は、その要望の唐突さやアクティングアウト的な要素に注意を奪われて、緊急の面談要求を拒否する可能性がより高いであろう。あるいは簡単に事情を聴く程度のことは行っても、要求どおりにセッションを設ける可能性は少ない。もちろん臨時のセッションを提供する時間的な余裕がない場合は論外だが、たとえあったとしても、治療構造に例外を設けることに対する懸念からその要求を拒否する可能性がある。

しかし患者の側にはその拒否の理由が即座には理解出来ない場合が少なくない。そして「治療構造を守ることが大切である」という治療者の側からのメッセージは、治療者にとっては半ば当然のことのように思えるのに、患者の側からは理解できないという事態が生じることになりかねない。筆者の臨床経験では、このような経緯による治療者患者間の理解のずれもまた、治療者が患者の態度を必要以上に「操作的」で挑戦的な態度とみなし、そこにBPD的な要素を見出す原因として大きいという印象を持つ。

BPDの医原性についての文献的な考察

以上は、医原性のBPDというテーマについての筆者自身の見解を述べたが、以下にこのテーマについて文献学的な検討を行う。英語の文献にはこのテーマに関するものが多く見られ、BPD の医原説はひとつの時代の趨勢という印象すら受ける。

BPDの研究で名高い Gunderson (2008) は、1980年代の精神分析的なBPDの理論がまさに医原性のものであったとの立場を示している。彼は BPD についての分析的な理解は患者の強烈な転移や抵抗に焦点を当てたものであり、その結果逆に患者の症状を作り出していた可能性があるとする。そしてむしろ治療者の側の逆転移の問題に焦点を当てることが、患者の真の治療に繋がると述べている。Gunderson はBPD についての疫学的な研究を行い、DSM-IIIに本障害が加えられることに貢献したことが知られるが、それだけにこのような見解は興味深い。
 Gunderson と同様の批判は、1990年にHerman によってもなされた。彼女はその著書「外傷と回復」(Herman, 1992) の中で、「BPD はヒステリーの現代版である」と喝破している。彼女はBPDの患者には非常に高い頻度で外傷が見られ、その意味ではBPDは実は外傷の犠牲者であること、そしてそれをパーソナリティ障害として扱うのは問題であることなどを述べている。
 Herman はBPDを自らの提唱する複雑性外傷後症候群(複雑型 PTSD)ととらえている。そしてBPDとは基本的には侮蔑的な診断名であり、むしろPTSDと考えるべきであるという。この Herman の主張はポレミックで従来のBPDの概念を根底から覆すところがあったが、それだけに一部からは多くの支持を得た。

近年では、Fonagy, Bateman といった、英国の中間学派の流れを汲む精神分析家たちもまた精神分析理論のBPDに関する医原性についての指摘を行っている。Fonagy らの「メンタライゼーション」に関するテキストにそれがあらわされている(Bateman, Fonagy,2006) 。

その中でFonagy らは従来の精神分析的技法はBPDの症状を悪化させるファクターとしてとらえている。例えば精神分析におけるメタファーの使用や解釈などは、かえって患者を混乱させ、患者を「心的等価物 mental equivalent」や「ごっこモード pretend mode」を主体としたかかわりに誘い込んでしまい、その代償として治療者とのパーソナルな関係が失われやすいとする。そこでBPDとの治療では、明確化、精緻化、共感、直面化などの分析的な技法よりは、むしろ通常の会話に含まれるようなかかわりを必要とするという。

ここで心的等価物やごっこモード、ないしは目的論的姿勢につい少し解説を加えておきたい。心的等価物とは、例えば治療者とのセッションが終了して、治療者の面接室を去る際に、実際に治療者から見捨てられてしまったような気になってしまうということを意味する。それに比べてごっこモードは、自分に生じたことがあたかもひとごとのように感じられるということを表す。これも具体例を挙げるのであれば、自分が実際に恋人から別れを告げられたにもかかわらず、それを実感できず、他人に起きたことのように感じる、というような事態が考えられる。このように考えるとごっこモードと心的等価物は、一見正反対の現象だが、実は表裏一体で、互いに防衛の関係にあるともといえる。

Fonagy らの主張をまとめれば、従来の精神分析的なやり方では、人の気持ちをわかりにくいという特徴をもつBPD の患者をさらに混乱させてしまうということになる。精神分析的な手法は、それが意味を持つためには十分な精神の機能を必要としているのであり、BPDの症例に対してそれを行うのは、彼らに処理不能なタスクを与えて混乱をさせるだけであるという。

以上の意味でBPDが「医原性」に作られるというのが Fonagy らの主張だが、これは先に論じた意味での医原性とはニュアンスが異なることに気づかれよう。先程は「ボーダーライン傾向は通常の人間が皆持っているのであり、治療者の分析的な態度はそれが姿を現すのを増やしかねない」という意味での「医原性」を用いていた。他方 Fonagy たちの議論は「BPD の人は通常の人と異なっており、分析的な態度は彼らを混乱させることで病理を助長する可能性がある」という主張である。

BPDの病理が治療によりつくられ、あるいは助長されるという考え方は、そのほかのエキスパートからも聞かれる。おそらくBPDの治療において近年最大の貢献をした一人といわれる米国のLinehan, M(弁証法的行動療法 DBT の創始者)もそのテキストの中で、患者を中傷するような解釈を与えたり、患者の助けを求める叫びを無視したり、感情の爆発や自殺傾向に対して特別の注意を払ったり入院治療を提供したりすることで、思いがけずも患者のそのような行動に対して報酬を与えてしまい、自分を評価してくれなかった家族環境を再現してしまう。そして最悪の場合、治療は医原性となるのだ、と述べられている (Linehan, 2007) 。

ちなみにこのような記述を読むと、ひとつのことに気がつく。自らの治療法を提唱する場合、同時にほかの治療法を批判するのは常套手段といえるが、そうなると必然的に「ほかの治療法で扱ったBPDの患者さんはよくならない。むしろ悪くなる場合がある。これは医原性のケースとなる。」という議論が導きだされる。「医原性のBPD」というテーマは、実はその意味でも複雑な事情が絡んだテーマといえる。

誤診としてのBPD

医原性のBPDのおそらく最大の原因は、誤診であろう。ただしこの場合は実際にはBPD の病理が存在しないということであるから、医原性のBPDという呼び方に正式には該当しない可能性があることは、本稿の冒頭で述べたとおりである。

BPDと誤診される傾向のある病理の中で筆頭に挙げられるきべものとして、特に最近注目されているのが、解離性障害である。筆者が臨床場面で出会う解離性障害、特に解離性同一性障害(以下、DIDとする)の患者は、過去に別の医療機関で一度や二度はBPD の診断を受けている場合が多い。ただしもちろんDIDのケースには、実際にBPD の診断基準を満たす場合もいる。その場合はBPDと解離性障害が並存ないし合併していると考えるべきであろう。しかし大概において、DIDは、BPDとはまったく異なる精神病理を持つというのが筆者の見解である。

まず事実関係に注目しよう。診断基準を比較した場合、DIDとBPD には共通する症状ないしは問題がいくつかあることは確かである。Marmer and Fink (1994) は両者の共通点として、 アイデンティティの障害、不安定な情動コントロール、自己破壊的行動、衝動統御の問題、対人関係上の障害を挙げている。これほど類似点があるわけであるから、DIDとBPDの成因には共通部分もあるだろうし、両者が「合併」することも多いことが考えられる。実際DIDとBPDが共存するケースについては、米国ではかなり以前から報告されている。少し古い統計では、DIDの患者の35~71%が、BPDの基準を満たすという(Gleaves, 1996)。しかし上述のとおり、DIDとBPDにはかなり大きな違いがある。とくに解離の機制の用い方については、DIDはそれが前面に現れているのに対して、BPDはその症状や防衛の一部を占めるものとして記載されているに過ぎない。Marmer と Fink はこれをBPDは一時的に「ローテク low-tech な解離」を用いるのに対して、DIDは極めて精巧な解離の機制を用いる、と表現している。

筆者はDIDのBPDへの誤診にはさらに治療者側の患者への感情的な反応という問題があり、これがこの問題が生じる一番大きなファクターであると考える。それはDIDの患者の示す多彩な症状に当惑し、その対処を重荷に感じた治療者が、この論考の冒頭にあるように「患者の側の抵抗や操作的な態度」をBPDの診断の根拠とする可能性である。実際にDIDのケースにおいては、そのふるまいが周囲に当惑や苛立を生む場合が少なくない。

ある患者は心理療法の終わり際に人格交替を起こし、子供の人格になってしまった。心理療法家はそれを介抱する必要に迫られ、そのために次の患者に長時間待ってもらう必要が生じた。療法家はこれを患者の側の行動化ないしは依存欲求の表現と理解し、患者の振る舞いを「ボーダーライン的」と考えたという。

まとめ

医原性のBPDというテーマでいくつかの論点を示した。BPD 的な振る舞いは、精神が危機に瀕した際に一時的に見られるのであれば、正常範囲のものと捉えることができよう。それは人間が根源的に持つ「自分は取るに足らない存在ではないか? 生きていてもしょうがないのではないか?」という不安を回避するための防衛的な行動と考えられ、それを筆者は「ボーダーライン反応」と表現した。BPD はその反応を長期にわたって頻繁に繰り返して示す病態として捉えることができる。問題は治療者側が関与することにより、その症状が過大評価されたり、実際に悪化してしまう可能性であり、それが本来の意味での医原性のBPDと呼ぶべきものであるとした。そこには治療者の側の自己愛傾向や権威者としての振る舞い、あるいは治療構造への過度のこだわりがしばしば関与している点が示された。更には実際にはBPDと呼べないものが、別の精神科的な障害の結果として誤診されてしまうという可能性について述べ、特に解離性障害について述べた。

最後に、医原性のBPDについて考え、BPD 様の症状が誇張して論じられる可能性について知ることと同時に、私たちは自分たちの中のBPD 傾向(「ボーダーライン反応」の起こしやすさ)について自覚することも極めて重要であるという見方も再度強調しておきたい。