第10章 トラウマと精神分析(2)
初出:こころの科学 特集「トラウマ」、2012年9月号
はじめに
本章では精神分析におけるトラウマについて、解離との関連も含めてさらに論じる。特に最近の新しい動向、すなわち母子間の愛着の問題やストレスもまたトラウマや解離の原因として注目されるようになっているという事情についても述べたい。
心の傷としてのトラウマの概念への関心は、わが国でもここ20~30年の間に急速に高まってきた。そこにはアメリカの精神医学の診断基準であるDSMの1980年度版(American Psychiatric Association, 1980)であるDSM-Ⅲに登場した心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder, 以下PTSDと表記する)の概念が大きく影響しているであろう。さらには1995年に私たちを襲った阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、そして昨年の東日本大震災が、私たちに心の傷の意味を考えさせる機会を与えたのである。
解離性障害とトラウマについては、両者の深い関連性は精神医学的にはひとつの「常識」となっている。心に衝撃を受けた際の一過性の深刻な解離症状は、DSM-Ⅳより急性ストレス障害Acute stress disorder (American Psychiatric Association, 1994)と呼ばれ、さまざまな臨床研究がなされている。ショックを受けて一時的にボーッとなったり、今自分がどこにいるのか分からなかったり、まるで映画のワンシーンを見ている様な気がしたり、あるいはこれまでの人生で起きたことがパノラマのように目の前に現れたり、ということはみな解離の一種と考えられるわけだ。しかし繰り返される深刻な解離症状については、その原因ははるか昔の、幼少時にさかのぼることが多い。ここで深刻な解離症状とは、人格交代現象などを伴う、いわゆる多重人格、ないし最近では解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下DID)と呼ばれる状態である。
このような事情から解離性障害はPTSDとともに、トラウマ関連障害の代表的なものであると理解されている。しかしトラウマと解離性障害の発症との因果関係を示すことは、実は決して容易ではないという事情がある。PTSDの場合はトラウマの多くは成人期のある限定された機会に生じたもの、あるいは一回限りのもので、そのトラウマはPTSDの発症に先立つ3ヶ月以内に見られることが多い。またそのトラウマはそれを引き起こした出来事が実際に報告されていることも少なくない。たとえば1995年1月の阪神淡路大震災の後に多くの被害者がPTSDを発症したという事実が知られるが、その大震災そのものは世間では誰もが共有している客観的な事実である。ところがDIDの場合は、既に述べたようにその原因となるトラウマの多くは、幼少時にさかのぼることが多い。そのためにその事実関係や背景となる事情に客観的な裏付けを与えることはそれだけ困難となるのである。
心の傷としてのトラウマの概念への関心は、わが国でもここ20~30年の間に急速に高まってきた。そこにはアメリカの精神医学の診断基準であるDSMの1980年度版(American Psychiatric Association, 1980)であるDSM-Ⅲに登場した心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder, 以下PTSDと表記する)の概念が大きく影響しているであろう。さらには1995年に私たちを襲った阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、そして昨年の東日本大震災が、私たちに心の傷の意味を考えさせる機会を与えたのである。
解離性障害とトラウマについては、両者の深い関連性は精神医学的にはひとつの「常識」となっている。心に衝撃を受けた際の一過性の深刻な解離症状は、DSM-Ⅳより急性ストレス障害Acute stress disorder (American Psychiatric Association, 1994)と呼ばれ、さまざまな臨床研究がなされている。ショックを受けて一時的にボーッとなったり、今自分がどこにいるのか分からなかったり、まるで映画のワンシーンを見ている様な気がしたり、あるいはこれまでの人生で起きたことがパノラマのように目の前に現れたり、ということはみな解離の一種と考えられるわけだ。しかし繰り返される深刻な解離症状については、その原因ははるか昔の、幼少時にさかのぼることが多い。ここで深刻な解離症状とは、人格交代現象などを伴う、いわゆる多重人格、ないし最近では解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下DID)と呼ばれる状態である。
このような事情から解離性障害はPTSDとともに、トラウマ関連障害の代表的なものであると理解されている。しかしトラウマと解離性障害の発症との因果関係を示すことは、実は決して容易ではないという事情がある。PTSDの場合はトラウマの多くは成人期のある限定された機会に生じたもの、あるいは一回限りのもので、そのトラウマはPTSDの発症に先立つ3ヶ月以内に見られることが多い。またそのトラウマはそれを引き起こした出来事が実際に報告されていることも少なくない。たとえば1995年1月の阪神淡路大震災の後に多くの被害者がPTSDを発症したという事実が知られるが、その大震災そのものは世間では誰もが共有している客観的な事実である。ところがDIDの場合は、既に述べたようにその原因となるトラウマの多くは、幼少時にさかのぼることが多い。そのためにその事実関係や背景となる事情に客観的な裏付けを与えることはそれだけ困難となるのである。
解離とトラウマの関係が認識されなかった時期
病的な解離とトラウマの関係が本格的に注目されるようになったのは、比較的最近のことである。それまでは解離の概念そのものが一般に知られていなかった。解離という概念が19世紀末にPierre Janet らにより用いられるまでは、それぞれの現象に異なる呼称が与えられていたのだ。それらはたとえば夢中歩行、催眠、交霊会、憑依、「話す文字盤」等と呼ばれた。また深刻な解離現象としてはヒステリーとして一括されて扱われてきた。そしてそれらの現象とトラウマは別に結び付けられてはいなかったのである。ヒステリーに関しては、それが女性にのみ見られ、女性の性的な欲求が満たされないために子宮が遊走することが原因であるなどという妄言が支配的であった。
18世紀にいわゆる「動物磁気animal magnetism」を考案したメスメルは、事実上催眠を通して解離現象を治療的に扱った最初の臨床家の一人と考えられている。その弟子のひとりであったMarquis de Puységurは、いわゆる「受身的な発作passive crisis」において、人格の交代が起きることを発見した。そして同様の現象は、ヒステリーで生じやすいことを見出した(Ellenberger,1979)。
その後の催眠の臨床的な応用の歴史については、以下のCharcotに関する記述に譲るが、Mesmerに始まる催眠療法の流れは現在まで連綿と続いている。しかしそこでは被催眠性とトラウマとの関係性は積極的に論じられない傾向にある。近年の催眠学界に大きな影響力を及ぼしたMilton Ericksonの著作にも、トラウマの問題はほとんど扱われていない(Zeig, 1980)。また近年 Hilgard により提出された「ネオディソシエーション」の理論 (Hilgard, 1973)についても同様である。
18世紀にいわゆる「動物磁気animal magnetism」を考案したメスメルは、事実上催眠を通して解離現象を治療的に扱った最初の臨床家の一人と考えられている。その弟子のひとりであったMarquis de Puységurは、いわゆる「受身的な発作passive crisis」において、人格の交代が起きることを発見した。そして同様の現象は、ヒステリーで生じやすいことを見出した(Ellenberger,1979)。
その後の催眠の臨床的な応用の歴史については、以下のCharcotに関する記述に譲るが、Mesmerに始まる催眠療法の流れは現在まで連綿と続いている。しかしそこでは被催眠性とトラウマとの関係性は積極的に論じられない傾向にある。近年の催眠学界に大きな影響力を及ぼしたMilton Ericksonの著作にも、トラウマの問題はほとんど扱われていない(Zeig, 1980)。また近年 Hilgard により提出された「ネオディソシエーション」の理論 (Hilgard, 1973)についても同様である。
Hilgard は被験者を催眠に導入した上で、次のように言った。「これからあなたに痛み刺激を与えますが、それをあなたは感じません」。そして催眠状態において彼に手をつねる、などの痛み刺激を与えて、それを被験者が感じていないということを確かめた。その後に被験者の中に「隠れた観察者」を呼び出してみた。するとその観察者は「痛みを感じていました」と伝えた。Hilgard はこのように人の意識には観察している部分が別に備わっており、それが分離して振舞うという様子を示したのである。
最近の「被催眠性の高い人々 The Highly
Hypnotizable Person」という著作(Heap, et al,2004)は、現代において催眠の立場から解離現象をどのようにとらえるかを知る上で参考になる。高い被催眠性を有する人々には、解離性の病理を有する人が含まれる可能性が高いからだ。しかしそれを参照しても幼少時のトラウマと被催眠性を関連付ける記載は見出せない。それは催眠の研究者たちが、むしろ被催眠性を一つの能力として捉え、治療に積極的に用いるという傾向と関係しているであろう。その立場からは、解離傾向を幼少時のトラウマに起因するものという捉え方はなじまないことになる。本来催眠の立場からの解離の理解は、その由来ではなく、その現時点での意識の構造に向けられるものなのだ(Dorahy,et al.2007)。
解離とトラウマ:J=M.Charcotの果たした役割