第9章 治療の終結について問い直す
― 「自然消滅」としての終結
― 「自然消滅」としての終結
本章では治療の終結について論じる。終結をいかに迎え、処理するかは精神分析ではかなり重要な問題として論じられる。それは分析治療が首尾よく行われたかどうかの一つの大きな指標とも考えられる傾向になる。私は本章でそれについて本当にそうであるかをもう一度問い直すことにする。
臨床経験はドロップアウト体験から始まる
そもそも治療はなぜ終了するのか。その答え自体はシンプルである。クライエントの側に治療に来るだけの動機付けがもはやなくなるからである。ちなみにここで私は「終了」と言った。単に終わること、という意味で、ここにはもちろんさまざまな終わり方が含まれる。それが目標をある程度達成した上で、しかるべき手順を踏む形で生じれば、それは通常は「終結 termination」と呼ばれる。そしてそれがクライエントの側から一方的に、しかも本格的な治療が始る前にもたらされる場合には、「中断interruption」ということになる。ただし私には後者は「ドロップアウト」という表現の方がなじみがある。「ドロップアウト」はする側にもされるに側も、失敗、望ましくない形で生じたこと、というニュアンスがある。治療者の側には、一度は担当することになったはずのケースが手からすり抜ける(「ドロップ」する)無念さという印象を伝える。場合によっては胸が痛み、トラウマにさえなる「ドロップアウト」の体験は、実は初心の治療者が経験を積む上での出発点でもあるのだ。
ところで、そもそもケースがドロップすることなく、きちんとした終結が迎えられるケースは、どの程度存在するのだろうか? もちろん治療者により異なるであろうが、米国の少し古いメタアナリシスは、心理療法のドロップアウト率として47%という数字を伝える(Wierzbicki,1993)。もしそうであれば、ビギナーの場合には、一旦治療が開始されたクライエントがドロップアウトの末に三分の一残れば、それで上出来ではないか。 最近の研究はドロップアウト率として20%前後という少し安心する数字を挙げている(Swift, 2012)が、臨床現場にいると、心理療法の初回面接に訪れた人の半分以上は、やはりドロップアウトしてしまうという印象を持つ。特にほかの臨床家から紹介されたのではなく、広告などを見て直接カウンセリングを求めてやってきた人のドロップアウトはかなり高率で生じる。「カウンセリングとはこういうものだろう」と想像していたものと実際の雰囲気とがあまりにかけ離れているために失望してしまうのだ。
ドロップアウトが一番起きやすいのが初回面接の後であろう。場合によっては治療者と対面してものの5分も経たないうちに、クライエント側はもう二度と来ないことを決めている。「ありえない。」「想像していたのと全く違っていた
……。」しかしそれを少しも口にせず、最後まで面接の場に居続け、多くの場合は次回の約束まできちんとしておいて、そしてその「次回」に
……… 訪れないのである。
初回面接を乗り越えたクライエントに次に訪れるドロップアウトの危機は、治療が始まって2,3か月後の、ラポール(治療関係)が出来かけたころである。それは予定していたセッションの何度かのキャンセルの後に起きるというパターンを取りやすい。まず第一回目は、「風邪をひいた」などの特定の理由でキャンセルの電話が入る。これ自体はどの治療関係にも普通起きることであり、治療者は特に気に留めないだろう。ところが次の週は理由もなく、ただキャンセルの連絡のみが受付に入る。治療者はある覚悟を持ち始めなくてはならない。そしていよいよ3回目は無断キャンセル。何の連絡もなく、ただスケジュールされた時間になっても現れない。そしてその後はこちらからの連絡にさえも応じなくなる。
この種のドロップアウトの場合、それが生じる以前には、治療をやめるような話はクライエントからは具体的には出ないのがふつうである。少なくとも治療者の側は今後も治療が続いていくつもりでいる。しかし患者の側では、動機づけがすでにかなり減ってきている。ただ治療者に対して申し訳ない、などの理由でそれをセッション中に言い出せない。そして最初は風邪を理由にキャンセルするが、少し胸が痛む。二回目のキャンセルでクライエントは、もう治療を続けたくないという暗黙のメッセージを、治療者に受け取って欲しいと願っている。最後の無断キャンセルは明らかな意思表示であり、それを行う側のクライエントにもそれなりの勇気と覚悟がいる。
このような場合、治療者の側はドロップアウトの「理由」を知りたがるが、通常それは明かされない。クライエント自身も明確な理由を特定できない場合が多い。ただどうしても足が向かないのである。しかし時には治療過程で生じたある出来事がきっかけとなり、ドロップアウトにいたることもある。治療者の側の過剰な頷きへの不信感。治療者の不用意なひとことやふと出たため息。あるいは治療者の見せた謎の涙。治療者が沈黙し、クライエントが自分だけ話をさせられている感じ、などなど。多くは治療者側にはそれがドロップアウトにいたったという認識はない。同じ治療者の共感の涙がラポールの強化に貢献することもあることを考えると、このドロップアウトは不可避的な運命のようなものしかいえない場合も少なくない。結局は両者に出会いがなかったとしか言いようがないのだ。
この種のドロップアウトの場合、それが生じる以前には、治療をやめるような話はクライエントからは具体的には出ないのがふつうである。少なくとも治療者の側は今後も治療が続いていくつもりでいる。しかし患者の側では、動機づけがすでにかなり減ってきている。ただ治療者に対して申し訳ない、などの理由でそれをセッション中に言い出せない。そして最初は風邪を理由にキャンセルするが、少し胸が痛む。二回目のキャンセルでクライエントは、もう治療を続けたくないという暗黙のメッセージを、治療者に受け取って欲しいと願っている。最後の無断キャンセルは明らかな意思表示であり、それを行う側のクライエントにもそれなりの勇気と覚悟がいる。
このような場合、治療者の側はドロップアウトの「理由」を知りたがるが、通常それは明かされない。クライエント自身も明確な理由を特定できない場合が多い。ただどうしても足が向かないのである。しかし時には治療過程で生じたある出来事がきっかけとなり、ドロップアウトにいたることもある。治療者の側の過剰な頷きへの不信感。治療者の不用意なひとことやふと出たため息。あるいは治療者の見せた謎の涙。治療者が沈黙し、クライエントが自分だけ話をさせられている感じ、などなど。多くは治療者側にはそれがドロップアウトにいたったという認識はない。同じ治療者の共感の涙がラポールの強化に貢献することもあることを考えると、このドロップアウトは不可避的な運命のようなものしかいえない場合も少なくない。結局は両者に出会いがなかったとしか言いようがないのだ。
ケースのドロップアウトは、これほど初心のセラピストにとって自己愛を傷つけることはない。私はスーパーバイジーや学生に対しても、ドロップアウトが生じそうになっていたら、それがわかった時点でとにかく一度はクライエントに来てもらい、率直にその経緯について話し合うことを勧めるし、また自分自身でもそうしているつもりである。しかしそれでもよほど治療者の側に心の余裕がない限り、この件をクライエントと冷静に話し合うことは難しい。それにクライエントの側はすでにもう治療を継続しないことを決めている場合が多いのだ。「もうこないと決めている以上、何を話すことがあるのか?」というクライエント側の事情もまた十分納得できるものだ。結局この「最後の話し合い」でクライエントが治療の中断を撤回する可能性は半分にもはるかに満たないのではないだろうか。