2018年4月2日月曜日

精神分析新時代 推敲 47



これを書いていると、私は初心の頃クライエントにドロップされた記憶のいくつかがよみがえる。20年以上前、米国の精神科医になるためのトレーニングで、精神療法の臨床実習があった。週一度のセッションに通ってくるケースをいくつか持たない限り、トレーニングが先に進まず、卒業さえ危ぶまれる。ところがつたない英語を話す自信なさげな外国人レジデント(私のことである)のところに来てくれるクライエントがなかなか見つからない。それでも「このケースこそは」と思えるクライエントとようやく巡り合う。その人との何回目かの約束の時間が迫ってくる。時計とにらめっこをする。定刻になっても現れない。5分経過。まだ現れるかもしれない。10分。もう無理か。やっぱり自分はセラピストとして選んでもらえなかった・・・。こうして失望が心に広がっていく。第二回目からいきなりドロップアウトなら、まだ救われるというところがある。「もともと縁がなかったんだ…」しかし数セッションが経過し、そろそろラポールが出来始めていると感じ、自分のケースとしてカウントし始めるころになると、そこで突然クライエントが現れなくなった時には、自尊心がズタズタにされる思いがあった。

心理療法の場数をこなし、ケースの中断という事態をある程度客観視できるようになると、また反応も違ってくるものだ。しかし治療者にとってイニシャルに近いケースだと、ケースに関して起きる不都合なことはすべて、自分に責任があると考えてしまう。しかも「何が悪かったのか?」の決め手が通常は得られない。クライエントはその理由をわざわざ説明しに来てはくれないからだ。(上にあげた例はどれも、主治医の私が治療者に紹介したクライエントたちがドロップアウトした後に語ってくれた内容である。)すると、何もかも、すべて自分が悪かったのだ、ということになる。初心の治療者は、こうしてますます自信を失っていく。
 私はそのような「手負い」の治療者が救われる唯一の方法は、自分を選んでくれる患者の登場であると思う。そう、クライエントのドロップアウトによる傷心の治療者救い出し、育て上げてくれるのもまた、クライエントの存在なのである。おそらく心優しく、時には厳しいスーパーバイザーの存在よりも。逆に言えば、そのようなクライエントにいつまでたっても出会えないとしたら、その治療者は仕事を変えることを真剣に考えなくてはならないだろう。
心理療法家がこのドロップアウトとそれからの立ち直りをその生業の初めに体験することの意味は大きい。それはある重要な現実の体験である。クライエントは支払うお金と費やす時間に見合ったものを受け取ることができないセッションには来ない、ということだ。クライエントはその点に関してはあまり偽らないし、そこには遠慮も気遣いも少ない(あったとしても、通常の社交上働くそれらに比較すればかなり少ないだろう)。心理療法は実力社会であり、クライエントはこちらの力量を推し量り、来る価値がないと判断したセッションには現れないのである。これほど正直なフィードバックはあるだろうか?心理療法家はそのような厳しい体験を通して、自分の仕事を確立していくのである。








治療は本当に終わるのか?
そもそもラポールを形成する段階まで進んだことのない初心の治療者にとっては、その先の治療過程を経て、終結や別れの作業に至るプロセスは、遠い苦難の道の末の出来事と想像されるかもしれない。しかしあるクライエントに選んでもらえた治療者は、あたかもクライエントと一緒にストーリーを読み進めるようにして歩を進めていく。時にはクライエントが先導してくれたりもする。それは苦難とは程遠く、興味をそそりワクワクするようなプロセスともなりうる。しかしそれはまた心を痛め、ハラハラし、自らの人生を振り返る機会となるような経験でもありうる。私は終結とは、そのストーリーの結末、結論、集大成、とは考えない。むしろそのストーリーに附属するもの、たまたま訪れる一区切り、というニュアンスの方が近いのではないかと思う。その意味では、終結は人間の死に似ている。
少し極端な問いかけをしたい。「治療関係に終わりはあるのだろうか?」もちろん精神療法に終わりはつきものだ。開始された心理療法と同じ数の終結や中断がいずれは生じるはずである。しかし終結や中断は、定期的て継続的ななセッションの終了を意味してはいても、それで治療者とクライエントの関係が切れるわけではない。こう考えることは、終結を重んじ、それに向かってワークするという分析的な立場とは異なるということも確かであろう。しかしこう言ってはなんだが、終結をきちんとしたいというのは、実は治療者の側の理屈であり、ニーズであったりする。
治療関係はいったん始まったら永久に終わらない、というのは暴言であろうか?しかし私たちはなぜ、一度治療関係に入ったクライエントとは、治療終結後も私的な関係に入ることを非倫理的と考えるのだろうか?終結した患者は、いつ何時また問題を抱えて舞い戻ってくるかもしれない。それを二度と受け入れないという理屈を治療者は持っていないはずだ。もしそうだとしたら終結自体が一区切りという意味での仮のもの、ということになりはしないだろうか?少なくともクライエントの側は、「また何かあったらおいでください」と治療者から送り出してもらうことを望んでいないだろうか?
その意味では治療関係に入るということは、その瞬間が、通常の人間関係の終わりであるとすら言える。私は昔精神科の外来で出会い、人間的にも惹かれると感じた相手(患者とはあえて呼ばず)と、今こうして治療者患者関係に入ることで、決して私的な関係には入れない関係になってしまっていることに思い至り、不条理さを感じたことがある。初診面接とはその人とのパーソナルな関係の可能性の終わりであり、いつ終わることもない治療者クライエント関係が始まりでもあるのだ。
終結したクライエントが舞い戻ってくることに治療者が心の準備をしておくという立場は、「一度終結したらもう会わない」という、多くの分析家が持っている立場とはかなり異なる。しかし精神科医として臨床に携わる際には、前者の方が普通であり、医師も患者もそれを前提としている。臨床心理士やカウンセラーも同様であろう。そのようなケース、いわば常連さんが心理士の生計を支えていることすらありうる。そしてこのことは、例えば弁護士にしても税理士にしても、おそらくあらゆるサービス業について言えることだ。彼らにとっては終結や中断は、一区切りであり、関係自体は永続的なのである。

一番多い「自然消滅」のパターン

通常の、特に精神分析的な構造を持つことのない、上述のような明確な終わりを持たない心理療法は、実際どのような「終わり方」をすることが多いのだろうか?私の体験を少し書いてみたい。
私はこれまでに、数多くの心理職の方々の心理療法を担当する機会を持ったが、彼女たち(女性の方が多いのでこのように呼ばせていただく)が無断で治療を休んだり、ドロップアウトしたりするということは、非常に考えにくい。彼女たちはきちんと終結の予定を立て、そのためのワークを行い、そして去っていく。それにはそれなりの理由があるのであろう。彼女たちが臨床心理職として心についての作業を重ね、治療のプロセスについてもその意味を自覚し、その心理的な起承転結をわきまえている可能性があるだろう。またドロップアウトの持つ破壊性を身をもって承知している彼女たちが、それを自らが行うことには大きな抵抗を感じるということもあろう。さらには狭い業界であるために、いずれは治療者と別の機会で顔を合わせることも多く、あまり失礼な終わり方は出来ない、という思考が働くかもしれない。
それに比べると一般のクライエントの終結の仕方はずっとそっけなく、また自分本位(いい意味を含む)であることが多い。彼らはそれほど、あるいはまったく「きれいな終結」を意識しないであろう。そこにはむしろ現実的な事情が働き、偶発的でより自然な形での終結、私がここで「自然消滅」と呼ぶプロセスがかなり多く見られる。
「自然消滅」それ自体はシンプルな理由で生じる。冒頭で「治療の終結は、クライエントの側に治療継続の動機付けがなくなるから」という言い方をしたが、それがここに当てはまる。クライエントは治療の継続する一定の期間を通じて、治療者から「何か」を受け取るのだ。それは人生の難しい局面に差し掛かっているクライエントへの、洞察を促すような介入かもしれないし、治療者のある種の情熱かもしれない。「安全基地」や「抱える環境」の提供でもありうる。治療が継続する限り、クライエントは治療者からの「何か」にそれなりの満足を得るだろう。しかしそれと同時にクライエントは幾分かの不満をも持つはずである。「こんなものだろうか?」「別の治療者ならもっとしっかり話を聞いてくれるのだろうか?」「少しもよくなっていないではないか。」そのうち「この治療者との関係では、これ以上は望めない。もちろん精一杯やってくれたことはわかるが。」などの気持ちを抱くはずだ。これは程度の差こそあれ、必然的に起きる。いかなる治療も理想化された関係性の不完全なる代償に過ぎないからだ。そして治療者の側も、「自分はもうすでに力を尽くした」や「もう伝えるべきものは伝えた」という感覚、あるいは「自分には力不足だった」という思いが起きるようになるだろう。あるいは「そもそもクライエントが安くない料金と貴重な時間を費やして通ってくるのに見合うだけのものを自分が提供できていないのではないか?」などとも考えるかもしれない。