2018年2月24日土曜日

いかに学ぶか 推敲 3

脱学習とは
そこで学びほぐす unlearn ということについて少し説明しましょう。この絶妙な表現は2015年に亡くなった評論家鶴見俊輔のものということになっています。鶴見氏はこんな体験を持ったといいます。戦前、彼はニューヨークでヘレン・ケラーに会いました。彼が大学生であることを知ると、「私は大学でたくさんのことをラーン learn (学習)したわけですが、そのあとたくさん、アンラーンunlearnしなければならなかった」と彼女は言ったそうです。鶴見先生はたちどころにヘレン・ケラーの言わんとすることを理解したそうです。彼の頭には、型通りにセーターを編み、そのあとほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像されたといいます。それが「学びほぐす」という言葉のニュアンスだそうです。(「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」朝日新聞 20061227日(水曜日)朝刊13面 )
 ちなみに英語の unlearn にこの絶妙な意味合いが含まれているかは疑問です。英語の時点で調べてみると、It is hard to unlearn bad habits.などという例が出てきます。Unlearn とは、忘れる、とかひとつの凝り固まった学習を放棄するという意味があるようです。しかしヘレン・ケラー女史や鶴見氏の言う unlearn は学んだことを改めて「本当だろうか?」と問い直すことであり、そこにはそれを放棄するという立場も、それを自らが再び選び取り、自分のやり方で心に収め直すという立場も両方ありうるのです。

特にFreudの精神分析については学びほぐしが必要な理由

この点は特に強調したいと思います。どの理論を学ぶにしても、その理論はその論者が主張したいことが前面に立ち、同時に論者が隠したいこと、防衛したいことを反映している可能性があります。(今このように主張している私もそうです。)S. Freud自身の理論にもM. Kleinの理論にも、H. Kohutの理論にもO. Kernbergの理論にも、彼らの伝えている真実とともに、それを防衛し、正当化するためのあらゆる仕掛けが備わっています。こう考えるとメジャーな理論には必ず脱学習すべき点が隠されていると言っていいでしょう。
たとえばFreudの理論の基礎的な部分について考えてみます。Freudは精神病理の根幹に抑圧された性愛性を考えました。それが人を衝き動かしたり、症状を形成したりしていると考えたわけです。これ自体は仮説としては十分あり得ます。当時の時代性を考えると、画期的、というよりも大変に革新的だったと言えます。でもそれと同時にFreud にはある種の真実を発見し、世界をあっと驚かせてやろうという、野心的で自己愛的な部分がありました。そしてこの欲動論に合わない事実はどんどん切り捨てていったというところがあります。彼はそうやって何よりも理論の整合性を求めたわけです。ということはリビドー論にうまく繋がらないようなトラウマや解離の問題はことさら軽視されたということがあるでしょう。私の理論的な立場からすればどうしてもそう見えてしまうのです。Freud理論を本当に学習するためには、彼が軽視したり棄却したりした部分に注意しなくてはなりません。それがフロイトの脱学習です。ですから脱学習する、とはFreudからAさん(あなた)の理論になる、ということです。
あるいはKlein理論。Kleinにとっては怒りや羨望が極めて重要なテーマであったことがうかがえます。そしてそれらは彼女の個人的な体験としても身近な感情だったのでしょう。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられそうになると誘発されます。そこで怒りをプライマリーなものにする理論では、人間の恥や弱さの自覚に伴う感情は陰に潜んでしまう傾向にあります。他方ではKohut 理論では怒りを自己愛の傷つきに対する反応としてとらえる傾向にあります。これがいわゆる「自己愛憤怒」の概念ですが、この場合にはプライマリーなものとしての怒りの議論はあまり出てきません。
この様に主要な理論には必ず光の当たった部分と影の部分があるということは、あらゆる理論はそれをバランスよく吸収するためには脱学習のプロセスが必要になることになります。すると結局は脱学習した結果に残るのは、あなたの理論なのです。