2018年2月25日日曜日

精神分析新時代 推敲 25


本当に自分を知りたくなる時
ただし私達には、本当に自分を知りたいと思う時が訪れることがある。自分の何が問題なのかを真剣に考えざるを得ない場合である。それまで私たちの中で守られていた自己愛的な防衛の一角が崩れ、心が深刻な痛みを発している時などがそうであろう。そのような時に私達は自分に漠然とした、あるいは時には非常に明確な違和感や不安を持ち、それを何らかの形で明らかにしたくなる。このような場合に私達は大きな苦しみを味わうとともに、おそらく自分の心に最も向き合うことを迫られるのである。ある種の修行の期間、挫折や敗北の後、指導者や上司の声を受け入れることが自らの向上につながるという可能性をいやおうなしに受け入れる必要が生じるのだ。
しかしそうならば、「来談者が自ら発見することを手助けする」という分析的なスタンスは、必ずしもそのようなタイミングに見合っていない可能性が高いであろう。救急に訪れた人に、救急医はただ安静にして自然治癒を促進すべくアドバイスをするだろうか。しかも解決の道が患者の心にすでに存在しているというのなら話は別であるが、そうではないばかりか、おそらく治療者自身にもそれは見えていない可能性がある。そこからはまさに共同作業が開始されるべきなのであり、治療者はそれに対して受け身的なスタンスばかりを取ることは適切でないということになる。
もう一つの問題もある。それは自分の問題を明らかにしたいという願望は、苦しみがある程度収まってしまった後は消えて行ってしまい、人はまた心の安定や自己愛的な居心地の良さを求めるようになるということだ。
私が以上の論述から何を言いたいのか? おそらく私たちが治療の目標としてしばしば掲げる「自分をもう少し知りたい」は、きわめて条件付きのものということである。そして「自分をよりよく知ること」を治療の第一の目標として掲げることをやめる時、私たちのカウンセリングや精神療法に対する考え方は振り出しに戻るということだ。

私たちが主として求めているのは「洞察」である

もし「自分をよりよく知ること」が、治療目標として維持することが容易ではないならば、より実質的な治療の目標として何を考えたらいいのだろうか? それを私は「洞察」として以下に示したい。そして洞察は、必ずしも解釈のみによりもたらされるわけではない。それをまず説明しよう。
まず以下の文章を読んでいただきたい。日本精神分析協会のホームページに掲載されているものである。
私たちは誰でも、ある種の無意識的なとらわれのなかで生きています。そのとらわれが大きすぎると、苦しくなり、ゆとりを失い、ときにはこころの病になります。 精神分析は特別なやりかたで、分析を受ける方と精神分析家とが交流する実践です。分析を受ける方がしだいに自分自身を無意識的な部分も含めてこころの底から理解し、とらわれから自由になり、生き生きとしたこころのゆとりを回復させることをめざしています。(日本精神分析協会公式ホームページ「精神分析とは」の一節、一部を強調。)
この「とらわれ」、という言い方が大事なのは、特にこれを無意識的、と断っていないからである。自分でも気がつかないうちに繰り返してしまう行動や言動について、その正体を知ることが洞察である。それが無意識的かどうかについてこだわる必要はあまりない。無意識的、と断り書きを付けると、そこには抑圧された欲動やファンタジーを想定していることになる。しかしそれは決まり切っていて無反省に用いられている思考かも知れない。認知療法ではそれを「自動思考」と呼んでいるわけである。そしてここで重要なのは、その洞察の対象は、客観的な現実や真実であるという保証はないということだ。
ここで改めて洞察とは何か? 私はある思考やナラティブが、強いリアリティ(信憑性)を伴う形で得られることと考える。そしてそれがとらわれの存在を浮き彫りにし、それへの対処法を示してくれるようなものである。そのような洞察が得られるプロセスとしては、私は以下のものを考える。
    脳科学的には、幾つかの思考のネットワーク間に成立する新たな結びつき。これまで慣れ親しんでいた二つの思考回路に一度連絡路が開かれるとそれは半ば永続的に強化される可能性がある。それは二つの湖の間に穿たれた水路のようなものであろう。たとえば「お父さんとの関係がここでも繰り返されていますね。」という介入などはそうであろう。
    来談者の人生をよりよく説明するようなナラティブとして取り入れられるもの。ある思考が他の思考や体験の意味を明確にしてくれるのであれば、それはそれを示された後は繰り返し頭に浮かび、新たな洞察として成立することになるだろう。これには「あなたが弟さんの引きこもりの問題の原因だってどうして思うんですか?」という介入などが挙げられるだろう。
   「あらたな主観」(治療者)から取り入れられるもの。自分がそのような発想を持っていなかったことでも、それが人から与えられることで自分のそれまでの体験に新たな意味を与えるという形で、何度も繰り返し反芻されることがある。これはたとえば「私は自分のあるがままを受け入れていいんだ。」などの体験が挙げられるだろう。

治療者ができることは「オブザベーション(コメントをすること)」である

ではこのような洞察に至るためには何が必要だろうか? 可能性のあるものをいくつか挙げてみる。
                  解釈を通して?
                  直面化を通して
                  明確化を通して
                  「オブザベーション」を通して
                  支持的介入を通して
                  現実(仕事や学業上の失敗、上司、同僚からの忠告、アドバイスなど)に直面して

このように列挙したのは、洞察に至る経路は様々なのであり、解釈を通してのみではないということを示したいからである。極端な話、「自分は自分のままでいいんだ」、という洞察は、患者が治療者から受け入れられるという支持的な介入から得られることもあるわけである。ここで私はGlen Gabbardのテキストからある表を紹介したい。

この図の中で左側の群が、これまで私たちが解釈に類する介入としてまとめていたものであるが、その中で私が代表としてあげたいのが、左から二番目にある「オブザベーションobservation」である。ただし表に見られるように、これは「観察」と訳されているものである。しかし英語でobserve とは、そこにいて観察し、それを伝えることまでも含む。そこで気が付いたことをそのまま言葉で伝えるというニュアンスがあり、何かを説明しようとしたり,つなげようとしたりを含まないものである。その意味では「指摘」「コメント」という表現が一番近いかも知れない。治療者は,行動や,発言の順序や,瞬時の感情や,治療内でのパターンを単に指摘するだけで、動機や説明には触れないままである。実際英和辞典にはobservation の意味として、3.〔気付いたことの〕所見、見解とある。
Gabbard がこのobservation の例として挙げている例は以下の通りだ。
l       「あなたのお姉さんについて尋ねたとき,あなたは涙を流されましたね」
l       「お帰りの際にあなたはいつも私と目を合わせるのを避けられますね」
l       「お父さんに見捨てられたことに私が話をつなげようとすると,あなたはいつも主題を変更なさいますね」
そしてこれには、直面化や明確化も含まれることになる。私がここで解釈をその代表にしないのはなぜかと言えば、解釈だけが治療者が最初に答えを知っていて、それを指摘する、というニュアンスを伴っているからである。しかし治療者が解釈を行うような特権を有することは誰にも証明できないからだ。
 そもそも精神療法とは何をするところなのか?
ここからは、本章の後半部分である。前半では、治療者の役割のうちの解釈部分は、治療者が自分の無意識を知りたいという前提があって初めて意味を持つのであろうが、そこで主要な介入とはオブザベーション(指摘)であるという内容だった。しかしそもそも患者が何を求めて来談するかという問題に関する答えには至っていない。そこで「そもそも精神療法とは何をするところなのか?」というテーマにまで戻りたい。
実は精神療法とは何をするところなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを定義することが出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングという立場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストとクライエントが一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そしてクライエントが再びセラピストを訪れる意欲や動機を持ち続ける限りは、そのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的な事態(治療者による患者の搾取など)が生じないならば、かなりの範囲のかかわりが精神療法として成立し得るであろう。
そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが患者さんの中に維持されうるかを考える。ここではふつうは具体的な動機付けが先ず考えるのであるが、私は逆を行きたい。それは患者にもわからないような動機である。たとえば私たちがヨガに通うとき、マッサージに通うとき、囲碁のクラスに通うとき、おそらく家を出る際には、それらの場所を訪れたときの雰囲気や、そこから帰った時の気分を思い浮かべるであろう。おそらくは私たちは間違いなくある種の漠然とした心地よさを予想しているはずである。あるいはそれを継続すると決めたことによるある種の達成感ということもあるだろう。そしてその心地よさがどこから来るかは、本人にも詳細はわからないのである。ただしそこで面接室の雰囲気、行き帰りの時間等を考えるであろう。それらの総合なのだ。「今日はセッションに行こうか?それともキャンセルしようか?」と深刻に思う際、非常に総合的な評価が無意識によってなされている。ある患者さんは、「セッションに行くと、そのあと気分が持ち上がる、いい気持ちになる、達成感がわく、ということがあるんです」と言ったが、それは彼の治療がうまく行っていることの表れと言えるだろう。それが治療者に会いたい、そこでは居心地良く過ごすことが出来る、などの体験を生む。そこには様々な要素が考えられよう。私は特に以下の三つを考える。
1 自分の話を聞いてもらい、分かってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して説明をしてもらうこと。
3.治療者の存在に触れることで孤独感が癒されること。 
ただし私はここに「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。それはすでに前半で述べたからだ。それ以外の理由を考えていただきたい。もちろんこの三つ以外にもあるかもしれないが、これら三つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。
1.に関しては、人が自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして自分達の体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかしそれだけではないだろう。
2.については、ある意味では治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになる。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭におさめたいということだが、要するに物事の因果関係を明らかにするということだろう。そのためにはどうしても言葉が必要になるのだ。「いま私には何が起きているのだろう?」「私はどうしたらいいのだろう?」すべてのせっぱつまった疑問に対する答えは、ある種の因果関係を示すことなのだ。「AだからBが起きたんだよ。」するとそれだけで納得でき、心に収めることが出来るかもしれない。その中にはたとえば「起きたことはたいしたことないから、心配することないよ」「単なる気のせいだよ。」という説名すら意味を持つかもしれない。
ここで例を一つ出す。2017年にフィギュアスケートの浅田真央さんが引退したが、その特集のテレビ番組で流された一つの印象に残る一シーンがあった。演技を前にして佐藤コーチが何か真央さんに言っている。それに彼女は一生懸命うなずく。よく聞くと「メダルを取ることなんていいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という言葉が聞こえた。真央ちゃんはそれを真剣に聞き、うなずいてリンクの中央に向かって滑り出していく。
あのコーチの言葉は何だろう? どのような意味を持っているのか。今流行の言葉で言えば、あれは一種のナラティブだ考えられよう。一つのまとまった意味。それは私たちに安心感を与える。それがないと不安でいられないのだろう。人生はまさにカオスである。何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。そのときに一つでもそこに意味を見出すことで安心するのだ。あるいはこんな例だっていいだろう。何となく体がだるい。何が自分に起きているのだろう? ふと喉の痛みに気がつく。熱も少しある。「そうか、風邪なんだ」と納得する。この「おそらく風邪だろう」はそれより悪性の、場合によっては致命的な何かではなさそうだ、という安心感を与えるのだ。
しかしそれにしても昔の人たちは大変だったはずだ。たとえば日食が起きて急に空が暗くなったとしても、「この現象は不吉な出来事の前兆に違いない」となったのである。今の私たちだったら意味のないこのナラティブは、おそらく日蝕に関する科学的な説明、つまり何年かに一度起きる天体現象であり、無害であるというナラティブに取って代わることで私たちを安心させてくれたわけである。
さて3.これも実に侮れないどころか、実は心理療法が継続される際の最大のモティベーションとなっているのではないかと言える。そしてこれはもちろん1.とも関係している。さもないとセラピストは患者の孤独感を決していやしてもらえないだろう。人間関係の中には、長年連れ添った夫婦や、成人後も生活を共にする親子関係なので、身体的には互いに近い場所で生活をしていても、精神的には極めて希薄な関係しかなかったり、一緒にいることでもっと寂しくなる、という、いわば「在の不在」としての他者さえいる。その中で治療者は常に患者の側に立って、しっかり「在の在」としての役割を発揮してくれる。

それでは治療者は来談者を心地よくさせればいいのか?

これが最後の疑問である。治療が継続する大きな要因が、患者さんの居心地の良さであるとしたら、治療者はそれを提供することを第一に考えるべきであろうか? 私はそれを否定しないが、治療者が向かうべき問題はより大きなものである。それは来談者の人生の質(QOL)の向上に最善を尽くすことである。それがその時の来談者に安心感を提供したり、孤独を救うことを意味したりするのなら、それでいいのである。しかしその時に来談者が洞察を得ることが将来的なQOLの向上に役立つのであれば、それも大切なことである。すると治療者がどのようなスキルや力を備えていることが、来談者のQOLの向上につながるのだろうか? おそらくそれは来談者の体験を的確に知る認知能力と共感能力、そして倫理観、愛他性ということになるだろうか。治療構造、精神分析の(相対的な意味での)基本原則はそれを最大限にするために用いるものである。