2018年2月23日金曜日

精神分析新時代 推敲 24


人は自分の無意識を知りたい、とは神話ではないか?
私はここで解釈ということの意味について改めて考えたいと思う。精神分析ではなぜこれほどまでに、解釈の重要性が論じられるのであろうか? 私は解釈の重要性を考える時の前提となるのが、私たちが自分自身の本当の姿、自分自身の中に隠された部分を知りたいという願望、ないしはその必要性を前提とする考え方である。まずそのことに再考を加えたい。
私が私淑し、最近その著書の翻訳を手がけさえした米国の精神分析家 Irwin Hoffmannが次のように述べている。
「最初に私が顕在的な問題について、真摯で幅広い関心を示したならば、潜在的な意味についての共同の探索はしばしばその後にやって来るであろう。しかしそれだけでなく、学習されたものはそれが何であっても、常に生々しく生き残るのである。解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。」(強調は岡野)(岡野、小林、2017
そう、解釈はやさしく伝えられないと人はそれを飲み込めないという。豊富な臨床体験を持った治療者ならではの発言と言える。しかしこの文章はむしろ、解釈の重要性が今でも論じられていることを意味していることにはならないだろうか? そして筆者Hoffman 自身も例外ではないのであろう。彼ほどに相対主義的な立場をとる分析家でもそうなのである。それはどうしてなのだろうか? それに対して一つの答えは上に述べたことだが、それを短く言えば次のように言える。
「人は自分の心の深層を知りたいという欲求を持つ。」
もしそうであるならば、患者の側の無意識を、患者に先んじて見通すことが出来た治療者が与える解釈には正当性があるということになる。そこでその問題から考えたい。
まずは「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」について。それは十分ありえるだろう。誰でも若い頃は一度ならず、自分の知らない可能性が眠っていると考えるのではないか。私は若い頃楽器の演奏や武道にエネルギーを注いでいたが、適切な指導を受けてコツコツ練習していけば、自然と上達していくのではないかと漠然と考えていた。将来をつくるのは自分だし、いかなる未来も自分の努力次第で可能だ、と思えていた年代。語学などもその例だった。私は20代前半にフランス語を学び始めた頃は、現地の生活を一年でもすれば、自然にネイティブ並みの語学力が身につく、と思っていた。今から思えばなんという無知ぶりだろうと思うが、そのようなことを考えるのが人間なのだ。自分の中にはいろいろな可能性が眠っている。それは鍛え方次第では無限の可能性を引き出すことが出来るかもしれない。それを知りたいというような、ワクワクした気持ちを、若い頃一度は持った人も多いだろう。私にとっては精神分析を受けることは、そのような「自分探しの旅」に似た魅力を感じることに繋がっていたところがある。同様な動機付けで分析を受けたいという人がいても決しておかしくないはずだ。
しかしここで一つ考えてみよう。人は自分のことを知りたいと思っても、自分の本当の姿を受け入れる勇気と覚悟を持つ人がどれほどあるだろうか? 先ほど述べたとおり、人は自分の中に隠れている才能を知りたいとは思うだろう。しかし自分には望んでいた才能が欠如しているという事実や、明らかに劣っている部分、ないしは病的な部分について知りたいと思うだろうか? それらについて知ることに関しては、むしろ好奇心に不安が勝ってしまい、人はそれをむしろ知りたくないと思うのが普通であろう。例えば知的な能力を必要とするような仕事についている人たちは、自分のIQレベルを積極的に知りたいだろうか? あるいは老境に差し掛かった自分の脳にどこまで、アルツハイマー病の原因物質であるアミロイドベータが溜まり始めているかを知りたいと思うだろうか?
そう、私たちは自分の隠れた才能や得意分野を知りたいという願望を有するのと同じくらい、自分たちのネガティブなことについては知りたくないというのが一番現実に近いのである。その意味で、「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」という主張はかなり割り引いて考えるべきなのだ。
 それに百歩譲って「いや、自分は悪いところも含めて自分を知りたいのだ」という勇気ある人が現れたとして、自分の劣ったところ、邪悪な部分などを次々と明るみに出されるとしたらどのような反応を示すだろうか? おそらく途中で治療に来なくなってしまうであろう。人間とはそういうものだ。自分の悪い部分を知る過程で、猛烈な抵抗が起きてくるであろうし、身体症状を起こすかもしれない。それはこれまで慣れ親しんだ思考や行動への挑戦に対する強力な「エス抵抗」(フロイト)とも関連しているはずである。
さらには自分の問題が容易に解決できるようなものではなく、またその多くは生得的な要素が強いために、今後もそれと生きていかなくてはならない。その対応で力を使い切ってしまい、さらに「自分の悪いところを知りたい」という願望は少なくともしばらくは影をひそめてしまうだろう。
一つの例を挙げよう。たとえば「ふつうに話しているつもりでも人に誤解される、どうしてなのだろう?」と苦しみぬいた末に治療に訪れた患者が、様々な検討を試みた結果、その理由の一つは、人の心を汲み取れるような繊細さにかけている、つまり発達障害的な問題がある、と指摘されたとしよう。そしてそれをどのように改善したらいいかと問うた場合に、「残念ながらそれはあなたには欠けた能力であり、それを獲得することは難しいでしょう」と言われたとする。もちろん彼はその自分に欠けた能力を補うためにはどのような工夫をしたらいいかと考えるかもしれない。しかしおそらく大部分の人は、「自分は救いようがないんだ」と思うことで、自分をさらに知るためのカウンセリングに通うモティベーションをなくしてしまうかもしれない。