2018年2月26日月曜日

精神分析新時代 推敲 26


前章では、「解釈中心主義」という言葉に表されるような、精神分析の治癒機序をもっぱら解釈に頼む姿勢について論じた。この章は、「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ……」、という立場での議論である。その場合には解釈は一種の「共同注視」ともいえる作業となるという主張である。

最初に「ここで解釈という概念を残し・・・」という表現について、注釈をつけておこう。精神分析の世界では、解釈を治療の中心にすえるという立場を取るか否か、という議論は非常に大きなウェイトを占める。それは言い換えれば伝統的な精神分析理論を否定するのか否か、という問いのような、一種の踏み絵のようなニュアンスさえある。おそらく精神分析の伝統を守る立場 (クライン派、自我心理学、対象関係論の一部など) では、解釈を中心に据えた治療を考え続けるであろう。これを第一の立場とするならば、より革新的な立場 (対人関係学派、関係精神分析など) 「解釈を超えた」( )治療機序を重んじるであろう。これが第二の立場だ。しかしここにはもうひとつの立場が存在し、それは解釈という概念を拡大し、そこに「無意識にすでに存在する真実を伝える」という従来の考え方を抜け出し、治療的な要素を含んださまざまな介入に関して、それを解釈と呼ぶという立場が存在する。これを解釈に関する第三の立場と呼ぶのであれば、私は自分はその立場であってもいいと思う。よく考えれば分かるとおり、第二の立場と第三の立場は、実は非常に近縁なものとなりうる。それは解釈をいかように定義するかによりどちらにでも立つことが出来る、いわば両立しうる立場なのである。ではその解釈の定義の違いとは、いかのように表現することが出来るかもしれない。第一の立場においては、解釈とは本来はフロイトが患者の無意識内容を伝えることを意味した。より一般化して言えば「患者の言動の隠れた意味を明らかにする介入」(ラプランシュ、ポンタリス)と定義されるだろう。第二の立場は解釈の定義をそのまま受け、それを中心にすえることを拒否し、たとえば対人関係ないしは関係性そのほかの治療機序を第一に考える立場といえるだろう。それに比べて第三の立場では、解釈は「患者がより洞察を得るために役立つような治療者の介入すべて」とでも定義できるようなものである。
以上を前提として、本題に入っていこう。

Laplanche, J and Pontalis, J.B (1973). The Language of Psycho-Analysis: Translated by Donald Nicholson-Smith. The International Psycho-Analytical Library, 94:1-497. London: The Hogarth Press. P228


1.技法の概要
解釈の定義はすでに上で簡単に触れたが、わが国の精神分析事典によれば次のように記されている。
「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)
ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考える。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「示唆(ないし暗示)suggestion 」と言い表したさまざまな治療的要素からは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009)  ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。