まえがきを書いてみた。
「精神分析とはいったい何か?」 私はこの問いを自分自身に長らく発し続けてきている。1982年に医師になって直後であり、もう35年も時間が経過したことになる。そろそろ答えが出そうなものだが、決してそういうことはない。否、私自身にある程度の答えが定まってからずいぶん経つのであるが、他の意見を持つ人々との対話はまだ始まってもいないという気がする。これだけ多くの学派が存在し、精神分析のとらえ方が異なる以上、「精神分析とは何か?」の解答が見つかったとはとても言えない。むしろ統一された解答など永遠に見えない、というのが解答だろうか?
私が15年前の2003年に出版した「中立性と現実」を手に取ってみても、その頃には私の考えはすでに大方固まっていたことがわかる。「患者の役に立つのが精神分析だ・・・・」煎じ詰めればそういうことを書いた。結局はその部分は変わっていない。それから現在までに積み上げた分析家としての経験、精神療法家としての経験、そして精神科医としての日常臨床はこの基本部分に関してのより確かな感覚を育ててくれたと同時に、精神分析とそれ以外の精神療法との違いを様々な形で知ることになった。
その間に私が著した本の中で、精神分析理論に関する専門書といえば、2007年の「治療的柔構造」以来ということになる。それ以外はもっぱら自己愛の問題や脳科学の問題を扱ったものだ。そしてその間に私は「精神分析家」という自覚が薄くなってきているのを自覚している。それは私が理想的な姿として考える「精神分析」と、我が国の精神分析家によって一般的に考えられている「精神分析」には大きな違いが依然としてあるということである。特に大学でこれから心理療法家を目指す学生と話している場合は、彼らがいわゆる「精神分析」を学ぶつもりで私の講義を聞いた場合に、誤解を与える可能性が少なくない。そこで私は「このような考え方は精神分析的な考えとは違っている可能性がある」ということを説明するようにしている。しかしこの頃そのような営みにも疲れを感じ始めてきている。
本書でも繰り返し出てくると思うが、私にとって精神分析を語ることは、「精神分析はどのような手法を用いるか?」を論じることではない。「患者のベネフィット(利益)につながるために、治療者と患者の両者の心の動きをいかに検討しあうか?」である。そしてそこにはどうしても「無意識」の理解が欠かせない。しかしそれはフロイトの唱えた無意識ではなく、新しい脳科学に立脚した「新無意識」に基づいたものである。しかしその意味での精神分析を語るためには、実はフロイトやそれ以降の分析家の考え出した概念は実は非常に役に立つのだ。その意味で私はやはり精神分析を学んできてよかったと痛感している。そして脳科学的な心の理解。おそらく精神分析をサイエンスにすることを目指していたもと神経学者としてのフロイトは私の考えを肯定してくれるのではないか、などと考えるところを見ると、結局は私もフロイトの一ファン、ということになるのかもしれない。
本書を構成する20の章は、私が折に触れて書いたものであるが、おそらく同じような方向を向いていることを読者の皆さんは感じていただけるかもしれない。