2018年2月21日水曜日

精神分析新時代 推敲 22

このような心の捉え方は、従来の伝統的な精神分析理論にはあまりなじまないものである。分析治療においては治療者が患者の連想内容からその無意識内容を見出し、それを解釈として提供する。それは抵抗に遭いつつも徐々に患者に洞察を導く。そこには心がある種の連続性を有しつつ展開し、無意識内容が徐々に意識化されていくプロセスを前提しているを考えられ、それを「漸成的な想定 epigenetic assumption」とも呼ぶ立場もある(Rappaport, Gill, 1959, Galatzer-Levy,1995)。
従来の精神分析理論においては、分析作業とはすでに無意識に存在している欲動やファンタジーを発掘する作業として捉えるという考え方に基づいていた。しかし最近の分析理論においては、無意識内容はむしろ臨床場面において生成されるという、いわゆる構成主義的な考えが提唱されつつある。それらは分析において解釈によりそれまでの「未構成の経験 unformulated experience(Stern,2003, 2009) や「未思考の知 Unthought known(Bollas, 1999) が生まれるという考え方に反映されているが、これらは事実上心の非線形的な在り方への注目ともいえる。
心の持つ非線形性の一つの表れとして、サブリミナル・メッセージの例を挙げよう。私たちの心は意識されないほどの短時間の視覚入力により大きな影響を受ける。Bargh (2005) の研究によれば、たとえば「協力」に類する単語と、「敵対」に類する単語をそれぞれ別のグループの被験者にサブリミナルに提示した後に、他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施すると、前者のグループでは協力的な行動が増加し、後者では敵対的な行動が増加するという。あるいは老人に関係した、たとえば白髪とか杖などの単語をサブリミナルに提示すれば、記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりするという。これらの研究の一部には、再現不可能との批判もあるものの、私たちの心の働き方の一側面を捉えていることは確かであろう。私たちの心は実に様々な内的、外的な刺激を受け、その時々で予測されなかった言動をとるものの、それを因果論に従ったものであり主体的に選択したものと錯覚する傾向にあるのである(Bargh, 2005)

非線形的な心のモデルが示す治療方針
上述した非線形的な心のモデルは、様々な意味で心理療法のあり方にヒントを与える。このモデルでは心の連続性や内的外的な諸因子との因果関係はあくまでも限定的なものとしてとらえられる。治療関係の在り方は、二つの複雑系の間の交流であり、互いの言動や無意識的レベルでのメッセージが互いに影響を及ぼし合う、一種の深層学習のプロセスであると考える。治療者が行う介入は、意図せざる要素を多く含むエナクトメントとしての性質が強く、患者に及ぼされる影響も正確な予想は不可能になる。
このような心の非線形的なあり方との関連で富樫(2011)は、従来の精神分析理論では、治療者と患者の関係を一つの閉鎖系と見なし、そこで生じたことが主として転移の反映としてみなす傾向にある点を指摘する。実際には治療関係とは開放系であり、患者を取り巻く様々な関係性や外的要因との動的な相互作用が生じている。
筆者は個人的にはこのような治療の在り方は関係論学派のI.Z. Hoffman (1998) により提案されている弁証法的構成主義の見方により包摂されているものとみている。この理論は治療関係において生じるものは常に過去の反復の要素(「儀式的 ritual」な側面)と、新奇な(目新しい)要素(「自発性 spontaneity」の側面)との弁証法であるという見方を唱える。このうち後者が心の非線形性により生じる心の予測不可能性に対応する。もし治療場面において生じることをこのように弁証法的に捉えた場合、治療者は患者の無意識を解釈したり将来を予見したりする役割から離れ、患者と共に現実を目撃し体験する立場となる。
複雑系として臨床状況を捉えることは、そこに何ら確かなことは見いだせず、治療の行方も不可知である、という悲観的な見方を促すわけではない。むしろ治療場面における偶発性や不確かさを患者と共に生きることの意義を見出すような治療者の感性を育てるという意味を有するのだ(富樫、2016)。そしてそこで否応なしに関わってくるのが治療者の主観性という要素である。治療状況が刻一刻と展開する中で両者が様々な主観的な体験を持っていることは確かなことであり、治療関係は二人の主体のかかわりであるという了解から出発することで新しい治療の在り方が考えられるであろう。実際に関主観性理論の立場や関係精神分析では、両者の主観に基づく治療論が提唱されている( Benjamin, 2005, Stolorow et al, 1987)。ただしそこで具体的に考えられる治療的なかかわりのあり方については、また別の機会に触れたい。