2018年1月30日火曜日

精神分析新時代 推敲 5

5章「匿名性の原則」を問い直す 
  
 「匿名性の原則」。精神分析的な治療を行っている人たちにとってはなじみ深い言葉かもしれない。いや、精神分析に限ったことではない。「心理療法」や「カウンセリング」という名のもとに心理士が構造を決めて行うセッションにおいても、治療者が自分のことについての話を控えることは一つの常識であり、お作法となっているという印象を持つ。「匿名性の原則」などと言う大仰な言葉を使わなくても、心理療法を行うものとして、専門家がわきまえておくべき常識、マナーという形で教え継がれていく。おそらく心理療法家の卵たちは、その理由については明確に考える機会を持つことなく、「~すべきもの」や「~してはならないもの」として教え込まれることの一つとしてこの原則を頭に入れていく。
私は心理療法家がとりあえずは自分を語らない、という姿勢にはおそらく害よりは益が多い気がする。というのもこの種のマナーが特に教えられないようなあらゆるサービス業(といっても心理療法をサービス業、と呼ぶつもりはないことはことわっておかなくてはならないが)で、サービスを提供する側が自分の問題を持ち込んでしまうことによる不利益が蔓延していると感じるからである。医学領域においても、治療者側が気さくでフレンドリーであることは望ましいのであろうが、彼のパーソナルな部分が時には患者側が望まない形で治療関係に侵入してしまう瞬間に、注意を払っていない場合が少なくないとの印象を抱く。
私は精神分析の「匿名性の原則」に対して批判的な立場から論考を発表したことがあるが、それはこの原則が行き過ぎる形で守られることの弊害についての考察であった。私が論じた「自己開示」の概念は、その意味では「匿名性の原則」の逆、対極、という意味では決してなかったつもりである。「自己開示」は出来るだけすべし、という主張を、私は一度もしていないつもりである。「自己開示」は治療的な意味合いがある場合がある、というのがその骨子であるにすぎない。その意味では「匿名性の原則」は柔軟に、必要に応じて遵守すべし、という主張と同じである。しかしそれにもかかわらず、「自己開示」について論じると、「先生は『自己開示派』ですね」と色付けされてしまい、何でも自己開示をすればいい、という程度に扱われてしまいかねない。私はたとえばHoffmanが主張するような、「治療者はなるべく患者からは見えにくい存在であることで治療者としての力を出せることが多い」という主張には全く同感という気がする。
そこでこの機会に、この匿名性の原則と自己開示について、最近の心境を綴ってみたい。