2018年1月29日月曜日

精神分析新時代 推敲 4

第4章 転移解釈は特権的なのか?

はじめに

 新時代の精神分析理論について論じる本書の第4章目に、このテーマを選ぶ。転移解釈の意味を問い直すということだ。前章に引き続き、私は「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ……」、という立場に立っている。そして解釈が精神分析にとっての基本であるとしたら、転移解釈は本家本元と言える。様々な解釈的な技法の中で、ひときわ高くその治療効果が期待されてきているのがこの転移解釈である。それについて批判的な検討をするのは、非常に挑戦的なのだが、それでもあえて行わなくてはならない。

まず述べたいのは、私自身は転移の問題について、かねてからかなり深い思い入れを持っているということである。少しうがった表現をするならば、私は「転移という問題に対する強い転移感情を持っている」と言えるだろう。そしてフロイトが精神分析の理論を構築する過程で転移の概念を論じたということは、それ以外の心の理論に比べて明らかに一歩抜きん出た位置づけを精神分析理論に与えたのだと考える。

ただし私は転移の解釈が特権的な治療的価値を有すると考えているわけではない。私自身は米国でトレーニングを受けたという事もあり、はじめは自我心理学に大きな影響を受けていた。そこでは転移の解釈はとても重要視される。しかし後になっていわゆる「関係精神分析 relational psychoanalysis」の枠組みから転移の問題を捉えるようになった。その関係精神分析においては、転移を解釈することの治療的な意義を強調するのではなく、転移が治療場面にとても大きな意味を持つことを認識するという立場が取られるが、それは私自身の考え方と一致する。この両者の違いがお分かりだろうか。転移は大きな意味を持つことを認識する(関係精神分析)ということ、とそれを解釈する(治療者のその理解を患者に伝える、という従来の立場)ということは違うのだ。つまり関係精神分析では、転移が臨床的にあまり意味を成さないから無視するという立場とは異なり、むしろいかに転移がパワフルなものなのか、いかにそれが治療的に用いられ、いかなるときにそれが破壊的なパワーを持ってしまうのかについて判断する治療者の柔軟性が要求されるということである。

あるエピソード

転移の持つパワーに関しては、私には一つの原体験というべきものがある。それはもう20年近く前、私が精神分析のトレーニングを開始したごく初期に、私自身の教育分析で起きたことである。ある日私は自分の分析家に、こんなことを話した。「先生は私と似ていると思います。先生はいつも何か手でいじっていて落ち着かないですね。この間は私たちの分析協会での授業をしながら、発泡スチロールのコップにペンでいたずら書きをしているのを見ましたよ。私も退屈になるといつも似たようなことをするんです。」これは私の彼に向けた転移感情の表現といえただろう。すると私の分析家は黙ってしまったのだ。それまで私の話にテンポよく相槌を打っていた分析家が急に無口になってしまったのであるから、私は非常にわかりやすいメッセージを受け取った気持ちになった。私は彼から「頼むから私の話はしないでくれ・・・・・。」という呟きを聴いた気がしたのである。もちろんそのような言葉は彼の口からは出てこなかった。しかしそれ以降も、私は分析家との間で同様のことを何度か体験した。私が彼について何かを言うと、彼はあまり相槌を打たなくなったり黙ってしまったりするのである。
 もちろん普段の日常会話であるならば、話し相手の癖や振る舞いについて話すことは失礼なことだ。しかし精神分析に対する理想化が強かった私は、老練な私の分析家がそんな世俗的な反応をするはずはないと思い込んでいたので、この突然の変化をどう理解したらいいかわからなかった。それから5年にわたる分析の中で、私と分析家との間では様々なことが生じたが、その時の私には理不尽に感じられた彼の反応についての話し合いもかなり重要な部分を占めていた。