2017年11月24日金曜日

甘えの裏側の病理 5

5.甘えの精神病理

甘えの関係性の含む病理に関しては、「甘やかしamayakashi」の議論が興味深い。子供の側の「甘える」という動詞には、親の側の「甘えさせる」という動詞が対応するが、時には親の側が「甘えさせる」事を子供に一方的に押し付ける場合がある。それが「甘やかしamayakashi, spoiling」、である。長によれば、甘えとは「受動的であるとともに能動的」(岡野)な行動であるというのが特徴だが、「甘やかし」は親の都合によるものであり、そこには親からの一方的な押し付けがある。子供は「甘える」際の能動性を失い、親の暗黙の要求を受動的に受け入れることになる。「子は自分で求めてはいなくとも、甘えを求める弱者の位置に座らされるだけで、無力なままに押しとどめられる()」 甘やかす親は利己的である以上、子供が自分の好きな方法で甘えてくる場合にはそれを受け入れるが、それ以外は拒絶する。子供は母親流の甘やかしを受け入れるための仮面を形成しなくてはいけない。偽りの自己 False self の形成である。
 
「甘やかす-甘やかされる」の関係が通常の「甘える-甘えさせる」と異なる点を強調しておきたい。前者の場合、親の側の都合で子供を甘えさせるという事が起きる。こちらは親が子供の甘えたい願望に働きかけてことさらに甘えさせる態度で、基本的にその親は本当の「甘え」をかつて体験したことがない場合が多いのであろう。その結果として甘やかす親からは、子供は本当の甘えを体験することが出来ず、この問題は「世代間伝達」されていくという。
 すでに述べたように、甘える関係の基本は「人の心を読む」であるが、「甘やかし」の場合には、そこに一種の強制力が生まれる。甘やかしの例は、たとえば子供が欲しいものをすぐに買い与え、まだ子供の自律性を阻む行動をするだろう。子供が不安を感じるような事態は、先回りをして回避させてしまう。その際に決め手となるのは、親の側が実は体験している不安なのだ。親は自分の不安を回避することを主目的として、結果的に子供が自分で不安を処理する機会を奪ってしまう。
 もちろんこのような親の、ある種自己中心的な態度に対してそれを敏感に察知してそれを「ウザがる」子供はある意味では健全である。この研究を進める先生方の意見に相違して、甘やかす親からは、子供は大抵は甘えさせ部分のみを吸収して、それ以外の親の態度を棄却する。ところが時々不安の強い子供が、「甘やかし」に「甘ったれ」ることで反応する。このような子供にとっては「甘やかす」親は渡りに船であろうが、実は子供にないことまで甘やかし親に「読まれ」てしまう。「あなたは一人でお買い物に行くのが、本当は不安なんでしょう? ままの助けが必要なんだよね。」そういわれた子供は「そうだったんだ、僕は不安で、ママの助けが必要なんだ」と「分かって」しまう。日本社会におけるマインドリーディングは、マインドインプランティング(思考の植え付け)にもなってしまうのだ。
自分の気持ちを持つことを禁止される社会
私の臨床で非常に良く出会うのが、「怒りの感情をもてない」、「自分は自分の感情を持っていいということの意味がわからない」という訴えである。ここにはいくつかのレベルがあるらしい。まず比較的病理性の浅い「自分の気持ちをもてない」においては、母親の気持ちが優先されて、娘はそれに従うことを強く強制される。ただしそれは比較的巧妙に行われ、母親自身がそれに気が付かない。母親は自らの皮膚自我を用い、娘の気持ちを読み取り、また娘にもそのようにすることを要求する。
 これを書いていて、「解離性障害」に書いた次の事項を思い出した。
「解離が生じやすいようなストレス状況としては、「投影や外在化」が抑えられるようないくつかの状況が考えられる。それらは具体的には以下のとおりである。
状況1 ネガティブな心の内容を否認したり秘密にすることを強要されること。
状況2 ネガティブな心の内容について語ることに対する恥の意識を持つ(植えつけられる)こと。
状況3 ネガティブな心の内容について責任感や罪悪感を持つ (植えつけられる) こと、である。」

要するに、ネガティブな感情を表現できないような状況が継続するということである。ただしこれは解離を引き起こさなくても、子供にきわめて強い負荷をかけることは確かであろう。その結果として人格の解離が生じ、影人格が成立することになる。しかし驚くべきことに、それは「親の側の影人格」と呼応しているという場合がある。ある若い女性は、自分の中の影の部分が、母親の中の影の部分と支配、被支配の関係になり、その人格の存続に貢献していたと語った。(以下略)