2017年11月23日木曜日

甘えの裏側の病理 4 

4.甘えと相互の心の読みあい mutual mind reading

ここで甘えの問題を少し論じることにしよう。上に示したような相互の心の読みあいは、実は甘えの根本に根差していると言えるのだ。すでによく知られているように、土居は「甘えの構造」の中で、甘えが特殊な形での依存であり、西洋の言語にはそれに相当するものがないこと、それは甘える側が受身的な姿勢を保ちながら相手をコントロールするという事実について論じた。そこで大事なのは、子供が甘えるとき、親も実は身代わり的に甘えを体験しているということである。甘えは相手からの愛を引き出すが、そこには相手の側の甘えニーズに訴えかけるからだ。土居はこれをフェレンチやバリントが述べた「受身的対象愛passive object love」に近いものとして論じたのである。この受身的対象愛と対象愛の違いを理解することは重要である。対象愛とは、積極的に対象を愛することである。しかし受身的対象愛とは、相手に愛されようとすることであり、愛されるという受身的な体験を能動的に求めるという逆説的な行動である。そしてフェレンチやバリントがこれを自らが身を置く西欧の文化における母子関係を想定しながら論じていたことからもわかるとおり、甘えに基づく関係性は、実は万国共通なものであるはずだ。そしてそれは少し考えれば当然なことである。赤ん坊は自らの欲求を伝えられない。最初はその存在すら了解していないだろう。赤ん坊が空腹で泣くとき、母親は赤ん坊がおっぱいを欲しがっているのだと想像して赤ん坊に差し出す。満腹になった赤ん坊が母親に微笑みかけるとき、母親は微笑みかけてほしい、愛されたいという子供の願望を想像する。それもまた母親の側のmind reading であるとするならば、それが存在しない母子関係はいかに寂しいものだろう。母親からのmind reading は、子供の発達の初期段階では、こうして健全な形で存在していたことになる。 
 同様の母親の機能は、ウィニコットの論じた、母親の幻想を維持する機能にも描かれている。子供は空腹なときにおっぱいを幻覚として体験する。するとそこに実際に差し出されたおっぱいは、子供にとっては自分が想像したものであるという錯覚illusion が生まれるとウィニコットは説明する。そしてその場合に不可欠なのが、母親が子供に向けるmind reading なのである。これは土居が論じた甘えの関係と考えていい。ウィニコットが土居の甘え理論を知ったなら、わが意を得たりと思ったに違いない。
 すると最大の疑問がここに生じる。日本社会に見られるような甘えを基盤にした人間関係は、なぜ西欧では社会的な関係では存在せず、日本においては存在するのだろうか? しかし本稿ではこの問題を扱うことを目的としていない。むしろ甘えの関係が生むストレスについてさらに考えることにする。
 すでに述べたように、このような甘えを基盤とした人間関係は、時には非常に大きな対人間のストレスを生む。そもそも相手の気持ちを読みあうという行為は時には際限のない気持ちの探り合いを生むことはすでに述べた。それが特に顕著な形で生じるのが、日本における母娘関係であるという考えを私は以前から持っていた。日本の母子関係もまた敏感さと受け身性が支配しているようである。親は子供の甘えニーズを敏感に察知し、それに応えようとする。子供はそれにより甘えを体験し、より親密な母子関係を築くだろう。しかし一部の母子関係においては、知らないうちにそれが親による精神的な支配、被支配の関係に移行するかもしれない。母娘の間で最初は強い力を振るい続けた母親が、いつの間にか子供の位置に移行し、自分の気持ちを読むことを要求する。自分の気持ちを持つことを禁止された娘は、母の望んでいる像であり続け、提供し続けるのである。これが甘えの影の側面 dark side である。
 ところで同様のことは母―息子の関係に生じてもおかしくない。しかし母親が息子を取り込もうとする際、多くの場合息子はそれに捕らわれるそぶりを見せず、軽いステップで母子関係のくびきから飛び出してしまうのである。勿論ケースバイケースであるが、少なくとも母息子関係は、母娘関係ほどにはその病理性が見られない傾向にあるというのが私の印象である。