2017年10月9日月曜日

精神分析をいかに学んだか? 1

精神分析をどのように学んだか?


脱学習をする時は完全にひとりである

先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは3人の先生方が「治療関係」という大きなテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土、日にかけて行われるため、3人の講師が最後に一緒に質問を受ける、ということができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある受講生の方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからの電話を取る基準について、講師Aの言うことと、講師Bのいうことが違っていたので、講義を聞く側としては混乱してしまった。」
この講師Aとはある精神療法の世界の大御所です。そしてこの講師Cとは私のことです。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Cさんとしましょう)が問題にされたのです。おそらく私のことだから、電話を取る基準として私自身が用いている甘くいい加減な基準を話し、A先生はその逆だったのだろうと想像します。
私はCさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、精神療法について考える上で非常に重要な点を私たちに考えさせてくれると思います。それがこの脱学習 unlearning というテーマです。ちなみにこれには、「学びほぐす」という絶妙な大和言葉があてられています。
私は精神分析や精神療法の世界では、スーパーバイザーごとに、あるいはテキストブックごとに、異なる見解が書かれているのは当たり前だと思います。というよりは講師ごとに、著者ごとに意見が概ね一致しているようなテーマ自体がむしろ少ないのではないでしょうか?例えば治療構造は重要である、ということくらいしか思いつきません。
考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その療法ごとに極めて異なるということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)といった具合です。この間はある家族療法の大家が、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。

ちなみにどうして夢の解釈にしても精神療法のやり方にしてもいろいろなものが提唱されているかについて、皆さんはどのようにお考えになるでしょう?それは心の問題が私たちの理解を超えているからです。心がはるかに複雑だから、心はAである、という考えと心はBであるという考えがいつまでも両立し、拮抗してしまうのです。たとえ話をするなら、宇宙の成り立ちを知らない頃の私たちは、ある人々は天動説を唱え、別の人々は地動説を唱えていました。もし天文学が中世からまったく発達しなかったら、おそらく今でも天動説派と地動説派は対立し、拮抗していた可能性があるわけです。しかしコペルニクスの登場以降、この種の意見の対立はまったく意味を失ってしまいました。認知療法と精神分析が共存して、どちらもお互いに相手を説得しえない状況は、結局複雑な心をどちらも捉えきっていないということです。まあ、それはともかく…・