2017年10月10日火曜日

精神分析をいかに学んだか? 2

さてここで精神療法を「精神分析的」と「それ以外」、と言う大雑把なわけ方をしましょう。こんな分類は意味がない、とおっしゃる方もいるかもしれない。しかしこの会場には少ないでしょう。なぜならここにいらっしゃる皆さんは精神分析の世界をお選びになっていると言うことだとおもいます。すると皆さんはどこかで正反対の二つのうちのどちらかを混乱せずに無事に選んでいらっしゃるわけです。ある方は、最初から精神療法とは精神分析的なものであるということを、批判する余裕もなく伝えられ、そのまま受け入れられたのかもしれません。またあるいは最初は混乱し、何かの理由でこちらのほうを選び、おそらくそうすることで、もうあまり矛盾した話を聞かなくてすむのではないだろうと安心なさったのかもしれませんね。きっと頼りになる先輩に相談して、最終的に精神分析を選んだのかもしれません。でもそこの中でやはり同じことが起きるわけです。無意識を重んじるという立場では一致していても、詳細な内容に及ぶと、たちまち学派による違いが明らかになります。先ほどの自己開示の問題などはその例かもしれません。ある学派は自己開示を厳しく戒め、別の学派は治療的であればいいじゃないか、と言う風に異なるわけです。結局はそこで自分で決める時が来ます。頼りになる先輩はもはや確信を持って答えを出してくれないでしょう。あるいはあなたが「Xかな?」と思っていたことについて、その先輩に「絶対Yだ!」と言われてしまい、もうついていけないと思うかもしれません。結局どこかで一人で、誰に尋ねることもなく判断することになります。そしてそれを決める基準は、自分自身の感覚、英語で言うgut feeling なのです。これ、辞書で調べてみました。すると直感、第六勘と書いてあります。心から(胃の腑から)、あるいはフィーリングで、感覚的にそう思えると言うことです。そのときに脱学習が起きます。脱学習とは、学んだものを捨てる、ではなくて学びなおす、あるいは自分のものにする、ということなのです。


私は精神分析学を基礎として学んで治療を行っています、ということを聞く。しかし私は精神分析学を学んだだけではいけないと思う。精神分析理論をいかに学ばないかということも必要であり、そこに私たちの臨床家としてのアイデンティティがかかってくると思います。私はこれまでに優れた臨床家を目にすることが多くありましたが、誰一人として、フロイトの書いたこと、クラインの書いたこと、ラカンの書いたことをそのまま素直に実践している人はいませんでした。それらの臨床家に「どうしてフロイトの教えとは違うことを実践しているのですか?」と問うたらどのような答えが返ってくるでしょう? おそらくそれは「私は最初はフロイトから学び、あとは個別の臨床場面では、自分で考えて臨床をしています」と答えるでしょう。ということは、どこかで精神分析理論を脱学習unlearn しているということになるのです。