現代精神分析における「倫理的転回」の動き
以上の議論を踏まえたうえで、現代的な精神分析理論、特に関係精神分析における倫理の問題について論じてみよう。Hoffman,
I によれば、技法について論じることは、治療における弁証法的な両面の一方に目を注ぐことにすぎないことになる。彼によれば精神分析家の活動には、「技法的な熟練」という儀式的な側面と、「特殊な種類の愛情や肯定」という自発的な側面との弁証法が成立している。ここで言う「技法」は、本稿におけるフロイト流の治療技法に相当するが、Hoffman
の説に従えば、それは分析家の行う患者とのかかわりの一部を占めるに過ぎないことになる。すなわち慣習的な道徳の側面は分析家の持つもう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、患者と同じ人間である、という側面による常に裏打ちされている。そしてこの後者の側面が上述の道徳的な倫理と深く関係してくるのだ。
以上の Hoffman の視点に反映されるように、精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことは、精神分析における新しい動きにも反映されている。富樫は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回 ethical turn」という概念を紹介する。倫理的転回とは、いわゆる「関係論的転回 relational turn」という概念と対になる形で提唱されたものだ。関係論的転回においては、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在せず、心を扱う上での共通した理論やそれに基づく治療技法が存在しないという理解に基づく、新しい心の理解であった。しかしそれに基づき治療者が具体的にどのように行動すべきかという指針は与えられていなかった。そして倫理的転回は、「精神分析の行動規範や価値観の展開として言い表すことが出来るという。
勿論この倫理的転回が直ちに治療者にいかに振る舞うかという指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の「転換」を意味するのであり、それは先に見た規範的な倫理から道徳的な倫理への視点の転換とほぼ重ね合わすことが出来るであろう。
このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち理論に左右され過ぎてはならないという項目とも一致するのである。