2017年10月24日火曜日

倫理 推敲 2 ②

精神分析における倫理の問題

精神分析の世界における倫理の問題については別の論考(岡野、2016)で考察を加えているが、そこでの骨子を述べるならば、以下のとおりである。
フロイトが精神分析の治療技法としてまとめたものとしては、匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多い。またそれ以降の精神分析的な理論の発展の中で、転移解釈の重要性も指摘されるようになった。精神分析の草創期には、治療者がこれらの原則や技法が順守されることと倫理的であることに区別はなかったといえる。なぜなら正しい技法を用いることこそが患者の治癒につながると考えられたからだ。すなわちそこで問題となっていたのは、上述の Turiel の分類で言えば、慣習的な倫理の遵守であった。他方では当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密な関係に陥るという倫理的な問題が後を絶たなかったが、フロイトはそれを厳格に戒めることはなかった。
やがて米国では1960、70年代を経て、そのような倫理観に変化が生まれた。精神分析の効果に関する研究への失望や、境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な技法を厳格に遵守するという立場よりも、実際の臨床場面で治療者がいかに支持的に、ないしは柔軟に接するかに臨床家の関心が移行したからである。さらにはフロイト自身は実際には自らが唱えた基本原則からかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn, 1998など)もそのような変化の追い風になった。
他方では「オショロフ VS チェスとナットロッジ」の訴訟(薬物療法を行わずに精神分析を行ったことで回復が遅れたことについて患者本人が起こした訴訟)を通じて、精神分析はそれを開始する前に、インフォームドコンセント、すなわちその方針や利点やそれによる問題点などを明確に示して了解を取る必要が生じたのである。筆者はそのような流れが、分析的な「基本原則」から臨床上の「経験則」へと変遷しているものとしてとして論じた。たとえば「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」(Greenson, 2019)というような分析療法を進める上での教えがその例であろう。
米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, Clark, 2001)はそのような流れを反映したものと言える。そこには「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施しなさい」と書いてはいない。むしろ以下の倫理項目(抜粋)はそれを逆行しているとの印象すら受ける。
●理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。
●患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。
これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んで分析家の治療のあり方を具体的に規定するわけではなく、むしろ分析家は治療原則をむしろ柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「匿名性や中立性などは、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。 ただし禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」のほうは関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。
ちなみに精神療法における倫理を考える上で、米国心理学会の動きのまた注目すべきである。米国においては精神分析に先駆けて1950年代には 倫理原則 ethics code を作成する動きが生じていた。これは第二次大戦で臨床に多く携わった結果として生じたことである。その結果であった倫理上のジレンマがその動因となった。現在では9回改訂されているという。
最近の倫理原則の設定には、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば米国心理協会の倫理則の「導入と応用範囲」には、 (1)専門家としての判断を許容する。(2) 起きうるべき不正、不平等を制限する(3)広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒するとある。すなわちここでも大きな流れとしては、細かな技法にとらわれず、より道徳的な倫理を重視するという考えである。


岡野憲一郎(2016)心象場面での自己開示と倫理:関係精神分析の展開 岩崎学術出版社