「倫理的転回」の動き
精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことは、精神分析における新しい動きにも反映されている。富樫は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回 ethical turn」という概念を紹介する。倫理的転回とは、いわゆる「関係論的転回
relational turn」という概念と対になる形で提唱されたものだ。関係論的転回においては、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在せず、心を扱う絵での共通した理論やそれに基づく治療技法が存在しないという理解に基づく、新しい心の理解であった。しかしそれに基づき治療者が具体的にどのように行動すべきかという指針は与えられていなかった。そして倫理的転回は、「精神分析の行動規範や価値観の展開として言い表すことが出来るという。
勿論この倫理的転回が直ちに治療者にいかに振る舞うかという指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の「転換」を意味するのであり、それは先に見た規範的な倫理から道徳的な倫理への視点の転換とほぼ重ね合わすことが出来るであろう。
このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち理論に左右され過ぎてはならないという項目とも一致するのである。
(富樫公一 (2016) 精神分析の倫理的転回 -間主観性理論の発展 臨床場面での自己開示と倫理 関係精神分析の展開 岩崎学術出版社)
身近に出会う倫理性の問題の例
その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、三つ挙げておこう。
1 インフォームドコンセント
一つ目はいわゆるインフォームド・コンセンの問題である。治療者の側の倫理としてまず関わってくるのが、昨今議論になる事の多いインフォームド・コンセントであり、それと密接な関係にある心理教育の問題である。インフォームド・コンセントが何を意味するかはすでによく知られている。患者に治療の選択肢としてどのようなものがあるのか、それぞれについてどのような効果が期待され、それに伴うリスクはどのようなものか、などを説明した上で、特に勧める治療に合意してもらうプロセスである。そしてその前提となるのが、患者の病気や障害についての見立てを行い、その情報を開示し、必要に応じて心理教育を行なうことだ。これらのことをきちんと行なうためには、かなりの時間と精神的なエネルギーを要するし、そのための治療者側の勉強も必要となる。
しかしこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。すくなくとも精神分析の歴史の初期においては、分析的な技法を守ることと倫理的な問題との齟齬が生じる余地は考えられなかったといってよいだろう。精神分析的な技法に従うことは、より正しく精神分析を行うことであり、それは治癒に導く最短距離という前提があったからである。従ってそれをとりたてて患者に説明して承諾を得る必要はなく、またそれは治療者の受身性にもそぐわず、また患者に治療に対する余計なバイアスを与える原因と考えられることもあった。
しかしこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。すくなくとも精神分析の歴史の初期においては、分析的な技法を守ることと倫理的な問題との齟齬が生じる余地は考えられなかったといってよいだろう。精神分析的な技法に従うことは、より正しく精神分析を行うことであり、それは治癒に導く最短距離という前提があったからである。従ってそれをとりたてて患者に説明して承諾を得る必要はなく、またそれは治療者の受身性にもそぐわず、また患者に治療に対する余計なバイアスを与える原因と考えられることもあった。
2 症例発表の承諾
もう一つの例が、症例発表の承諾に関する問題である。学会や症例検討会などで症例の報告及び検討は欠かせないものであるが、実はその際に得るべき承諾の問題は、決して単純ではない。症例報告にはことごとく患者の承諾が必要なのか、それとも個人情報を十分な程度に変更したり一般化した場合には、承諾の必要はなくなるのか? これは決して単純に答えを出すことができない実に錯綜した問題である。その根底にある一つの大きな問題は、はたして承諾するか否かを尋ねられた患者の側に、どの程度それを断るという選択肢が自由に与えられているかという問題だ。これについてはギャバードが以下のように述べている。
第10章(「スーパービジヨンの使用」)に記したように, このアプローチの主要な欠点には,治療を行なう二者のプライバシーが侵害されるということやそのような環境では機密性が犯されていると患者が感じてしまう危険があるということがある。そのような状況で行なわれるインフォームド・コンセントが本当に自由意志によるものであるのかどうかには疑問符が付く。なぜなら,転移が強力すぎて嫌とはいえないのかもしれないからである。(長期力動的精神療法p228)
このことはおそらく治療が終わった際の承諾にもある程度言えることであろう。さりとて症例提示を失くすことは、分析家としてのトレーニングや学術交流のためにありえないことを考えると、この問題については私たちが語るまいとする力が一番強いのかもしれない。
3.境界侵犯
境界侵犯の問題は、精神分析が始まって以来の懸案であった。フロイトの多くの弟子が患者との親密な関係に入り、フロイト自身がそれを戒める必要を頻繁に感じていた。分析家たちは治療構造や境界の意識が低く、また逆転移への理解が十分でなく、フロイトの直接の弟子であるユングもフェレンチもジョーンズも患者との性的な関係を持ち、フロイトがそれをたしなめる必要があった。しかしその後は逆転移に関する理解が進むとともに、あらゆるセラピストが境界侵犯に陥る危険を伴うものとして、比較的オープンに語られるようになってその意味では、境界侵犯の問題は先に示したインフォームドコンセントや個人情報の問題とは異なり、倫理の問題とは別に治療関係における力動を理解する手段としても用いられ、倫理の問題がいかにして生じ、どのように防ぐことが出来るかに対する答えを提供する可能性がある。
境界侵犯は現実的な問題でもある。ある米国での報告では、調査の段階で10パーセント以上の治療者が自ら境界の侵犯を犯したことを認めている。この問題について
Gabbard の示す視点が興味深い。彼は境界侵犯を特に上級の分析家が犯した際の、組織ぐるみの抵抗 institutional
resistance が生じることを観察している(Gabbard, 1995, 2001)。彼はまた境界侵犯を犯した治療者の心理テストから、彼らが必ずしも自己愛的で反社会的な所見を示すわけではなく、むしろ寂しさや対人関係上の飢えを表していたという。