そこで分析学会として望むことは何か。それは力動的な考えを身に着けてもらうということか。でも力動的、ということを誤って捉えられると、これまたややっこしいことになる。力動的、ということと心因論的、ということは驚くべきである。
例えばある架空の事例について考えてみる。ある来談者が長年のモラトリアム生活を続けていることを報告したとしよう。彼は長年親密な関係をもてないでいる。彼には慢性的な自殺念慮があるとしよう。力動的な捉え方にはさまざまなものがあるが、例えば彼は強い親密さと親密さに対する深刻な恐れが存在し、また彼の自殺願望は自らに向かった攻撃性であり、それは本来は自分をないがしろにした両親に向けられたものだという理解もありうる。力動的な考え方は、患者の表層にある訴えの向こう側を見るべきだという風に捉えられうる。
例えばある架空の事例について考えてみる。ある来談者が長年のモラトリアム生活を続けていることを報告したとしよう。彼は長年親密な関係をもてないでいる。彼には慢性的な自殺念慮があるとしよう。力動的な捉え方にはさまざまなものがあるが、例えば彼は強い親密さと親密さに対する深刻な恐れが存在し、また彼の自殺願望は自らに向かった攻撃性であり、それは本来は自分をないがしろにした両親に向けられたものだという理解もありうる。力動的な考え方は、患者の表層にある訴えの向こう側を見るべきだという風に捉えられうる。
もう一つ分かりやすい例。ある男性患者が女性のパートナーを見つけて親密になる。その背後には、治療者との関係が終了になることが分かっている。治療者はその女性とのかかわりを、治療の終結に対する患者のアクティングアウトとみる。これもまたきわめて力動的である。これなどもクローズドシステム的な考え。そう、力動的な考えは同時にクローズドシステムの考えなのだ。
私はそれに100パーセント賛同を評した上でこう言いたい。実はそのような力動的な理解は、精神分析の諸学者が飛びつくものであると。私が日常的に接触する心理士の多くは精神分析と無関係であるが、「裏を読む」傾向は顕在である。というよりプロのカウンセラーになることは、そのような裏読みは定番になっているという印象を受ける。そしてそれらのある部分は非常に穿っていて、あるものは判断の下しようがないものなのである。私は精神分析の内側の人間だから、この辺の議論に対してはマイルドであるが、行動療法や認知療法の立場からは、もっと舌鋒するどく力動的な考えについて異を唱えるであろう。アーロン・ベックは現代の心理療法においては、患者の中の見えない何かが原因となり問題が生じ、それを見るためには治療者の力が必要である、という想定が存在するという。そしてそこに訓練を受けた専門的な治療者の存在が必要になるというわけである。