米国心理学会の動向
精神療法における倫理を考える上で一つの参考になるのが、米国心理学会の動きである。米国においては精神分析に先駆けて1950年代にはethics code 倫理原則を作成する動きが生じていた。
これは第二次大戦で臨床に多く携わった結果として生じたことである。その結果であった倫理上のジレンマがその動因となった。現在では9回改訂されているという。
最近の倫理原則の設定には、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば米国心理協会の倫理則のIntroduction and Applicability には、 (1) allow professional judgment on the part of
psychologists,専門家としての判断を許容する。(2) eliminate injustice or inequality that would occur
without the modifier, 起きうるべき不正、不平等を制限する(3) ensure applicability across the broad range of
activities conducted by psychologists, or 広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒する guard against a set of rigid rules that might be
quickly outdatedとある。
関係性精神分析における技法と倫理性
以上の議論を踏まえたうえで、現代的な精神分析理論、特に関係精神分析における技法論について論じてみよう。
精神分析はこの半世紀の間に実に様々な技法論を生み、多種多様な理論的立場が提唱されている。このことは、技法論の一元的なテキストを編むことをますます難しくしているといっていいだろう。また立場によっては技法の持つ意義に対する根本的な疑問すら唱えられている。たとえばいわゆる間主観性理論の立場や関係精神分析においては、技法を越えた治療者と患者の関係性の持つ治療的な意義に重点が置かれる傾向にある。そのような空気の中で、精神分析的な技法論という大上段に構えた著作は影を潜め、精神分析的なかかわりの持つ技法以外の側面が強調されるようになったのである。
現在の精神分析においては、一般に分析状況における技法を超えた治療者と患者のかかわりや出会いの重要性がますます強調されるようになってきている。ボストングループではそれを、暗黙の関係性の了解 implicit relational knowing, 出会いのモーメントmoment of meeting などと称している( 14 )。Renik (13) によれば、治療関係はいつも、目隠しをして飛行をしているようなもので、何が有益だったかは、あとになってわかるようなものであるとする。
これらの議論は精神分析が技法を学ぶことによりマスターされるといった見方から、より臨床経験を積み、また自らの教育分析の経験を役立てることの意義が問われるといってよいであろう。それは先ほどの分類で言えば「基本原則」からのますますの乖離であり、またそれぞれの立場からの経験値の蓄積、すなわち「経験則」の積み重ねということも出来る。
精神分析はこの半世紀の間に実に様々な技法論を生み、多種多様な理論的立場が提唱されている。このことは、技法論の一元的なテキストを編むことをますます難しくしているといっていいだろう。また立場によっては技法の持つ意義に対する根本的な疑問すら唱えられている。たとえばいわゆる間主観性理論の立場や関係精神分析においては、技法を越えた治療者と患者の関係性の持つ治療的な意義に重点が置かれる傾向にある。そのような空気の中で、精神分析的な技法論という大上段に構えた著作は影を潜め、精神分析的なかかわりの持つ技法以外の側面が強調されるようになったのである。
現在の精神分析においては、一般に分析状況における技法を超えた治療者と患者のかかわりや出会いの重要性がますます強調されるようになってきている。ボストングループではそれを、暗黙の関係性の了解 implicit relational knowing, 出会いのモーメントmoment of meeting などと称している( 14 )。Renik (13) によれば、治療関係はいつも、目隠しをして飛行をしているようなもので、何が有益だったかは、あとになってわかるようなものであるとする。
これらの議論は精神分析が技法を学ぶことによりマスターされるといった見方から、より臨床経験を積み、また自らの教育分析の経験を役立てることの意義が問われるといってよいであろう。それは先ほどの分類で言えば「基本原則」からのますますの乖離であり、またそれぞれの立場からの経験値の蓄積、すなわち「経験則」の積み重ねということも出来る。
倫理性の問題は、関係精神分析における関係論そのものの基本概念ともつながる。関係精神分析の立場にあるHoffman, I (7)によれば、技法について論じることは、治療における弁証法的な両面の一方に目を注ぐことにすぎないことになる。彼によれば精神分析家の活動には、「技法的な熟練」という儀式的な側面と、「特殊な種類の愛情や肯定」という自発的な側面との弁証法が成立しているという。この理論に従えば、技法は、分析家の行う患者とのかかわりの一部を占めるに過ぎないことになる。
彼の主張によれば、分析家が技法を用いることに伴う権威主義は、もう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、患者と同じ人間である、というもう一つの側面を併せ持つことにより意味があるという。その意味で、分析家のかかわりは、結局は患者が幼少時に持つ事が出来なかった母親との関係の代用に過ぎないという側面を持つことになる。彼の文章を引用しよう。
彼の主張によれば、分析家が技法を用いることに伴う権威主義は、もう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、患者と同じ人間である、というもう一つの側面を併せ持つことにより意味があるという。その意味で、分析家のかかわりは、結局は患者が幼少時に持つ事が出来なかった母親との関係の代用に過ぎないという側面を持つことになる。彼の文章を引用しよう。
しかし私たちは分析家が限られた予定時間内の料金による関係の中で、早期の情緒的な剥奪を補ってくれることをどの程度期待出来るのであろうか? それは実際に、現実の世界における誰かとの良好で親密な関係の、まさに不出来な代用でしかないようであり、ましてや神との信頼すべき関係のようなものではないのは言うまでもない。そして確かに精神分析には、支払う側の方が支払われる側よりも援助を必要としかつ傷つきやすいという側面があり、それは最適とは言えず、有害で搾取的でさえあるという言い表し方も無理からぬ側面がある(中略)。しかしその不満で頭がいっぱいになっている患者は、おそらく分析の外で親密な関係を築く上でも同様の不満を持つことで、ハンディキャップを負っているであろう。結局それらの親密な関係も、両親像との早期の理想的な結びつきの空想にはかなわない限り、不出来な代用として経験されるであろう。こうして分析的な関係の持つ目を覆うべき限界にもかかわらず、その価値を評価して高めていく方法を見つけられる患者は、他の関係性についても、それを受け入れて最大限に活用したりするためのモデルを作り出していくであろう。(ホフマン「儀式と自発性」第一章)
つまり精神分析における治療者患者関係は、それ自体が、分析家の権威主義に抗する形での平等主義を内在化したものとして説明される。分析家の態度が権威により引っ張られる傾向にある分だけ、分析家自身の持つ倫理性はより大きな意味を持つということになる。ただしこのことは、分析家の技法を用いる態度を否定するものではない。分析家という専門技能を有し、それを用いることに伴う権威は、むしろ分析家の人間としての側面が治療的な意味を持つためには必要な要素と言えるだろう。