2017年10月15日日曜日

日本における対人ストレス 推敲 ③

 ここで思い出されるのは、土居健郎の甘え理論の発端となった彼の異国体験の例である。「甘えの構造」(1971)の冒頭部分で、彼は次のようなエピソードを紹介している。彼は米国である家に招かれた際、「あなたは空腹ですか? アイスクリームがありますが」と問われた。彼は実際は空腹だったが、遠慮して「空いていない」、と答えた。そしてもう一度勧めてもらうのを期待したのだ。しかし相手は「あ、そう」と言ったきり、なんの愛想もなかったという。土居はこの時、アメリカ人にこちらの気持ちを汲んでほしかったのだ。当然日本での人間関係ではそうするのであるが、そのやり取りが米国では生じない。このことが彼を甘えの考察へと導いた。土居はこのくだりを描いた際に細かい分析をしていないが、私がもしするとしたら、先ほどの「海外に出ることで解放感を味わった人々」と裏表の現象として理解する。相手が何を欲しているかの読みあいは、時には喜びを生み、時にはストレスを生むのである。そのストレスとなる場合の方を考えよう。
相手が痛みを感じているとする。米国人も日本人も、相手の痛みを感じ取るところまでは同じだ。しかしそこから違うのが、相手がそれをどのように望んでいるかを米国では読んでもらうことを期待しないのに、日本においては、それを期待され、それに応えるようにして「読む」ことになる。しかしこれは出口のない展開を見せてしまう場合が少なくない。「相手が読んでいるかを読む。」「相手が読んでいるかを読んでいるかを読んでもらう。」・・・・・。日本におけるコミュニケーションのパターンはこれなのだ。そしてこれは甘える、甘えられるという関係に似ている。「相手にこちらの気持ちを分かってもらうことを期待する。」「わかって欲しいと期待している気持ちをわかる」「わかって欲しいと期待している気持ちをわかってもらうことを期待する」…。これは無間地獄である(大げさだ)。
贈り物だって似ているぞ。「つまらないものですが」ってどうなんだろう?「あなたは欲しいでしょう?だから持ってきました。でも捨ててもいいんですよ。どうせつまらないものですから。」 相手が贈り物を迷惑がって捨てたい場合を想像して気遣っている。「あなたはピアノが習いたいんでしょう?だから申し込んであげた。」 というのも全く同じ、という気がする。少し脱線してきたな、。でも相手にこちらの欲していることを読んでもらうのは心地よい。でもそれは私が何を欲しいかを押し付けられることでもある。おもてなしは攻撃的でもある。

甘えと相互の心の読みあい mutual mind reading


ここで甘えの問題を少し論じることにしよう。その目的は、上に示したような相互の心の読みあいは、甘えの根本に根差しているということを示すためである。すでによく知られているように、土居は「甘えの構造」の中で、甘えが特殊な形での依存であり、西洋の言語にはそれに相当するものがないこと、それは甘える側が受身的な姿勢を保ちながら相手をコントロールするという事実について論じた。そこで大事なのは、子供が甘えるとき、親も実は身代わり的に甘えを体験しているということである。甘えは相手からの愛を引き出すが、そこには相手の側の甘えニーズに訴えかけるからだ。土居はこれをフェレンチやバリントが述べた「受身的対象愛 passive object love」に近いものとして論じたのである。この受身的対象愛は、愛されたいという欲求を他者に示すことであり、そこに愛するという能動的な対象愛との違いが強調されているのだ。そしてフェレンチやバリントがこれを自らの文化における母子関係を想定しながら論じていたことからもわかるとおり、甘えに基づく関係性は、実は万国共通なものであるはずだ。そしてそれは少し考えれば当然なことである。赤ん坊は自らの欲求を伝えられない。最初はその存在すら了解していないだろう。赤ん坊が空腹で泣くとき、母親は赤ん坊がおっぱいを欲しがっているのだと想像して赤ん坊に差し出す。満腹になった赤ん坊が母親に微笑みかけるとき、母親は微笑みかけてほしい、愛されたいという子供の願望を想像する。それもまた母親の側の mind reading であるとするならば、それが存在しない母子関係はいかに寂しいものだろう。
同様の母親の機能は、ウィニコットの論じた、母親の幻想を維持する機能にも描かれている。子供は空腹なときにおっぱいを幻覚として体験する。するとそこに実際に差し出されたおっぱいは、子供にとっては自分が想像したものであるという錯覚 illusion が生まれるとウィニコットは説明する。そしてその場合に不可欠なのが、母親が子供に向ける mind reading なのである。これは土居が論じた甘えの関係と考えていい。ウィニコットが土居の甘え理論を知ったなら、わが意を得たりと思ったに違いない。
  すると最大の疑問がここに生じる。日本社会に見られるような甘えを基盤にした人間関係は、なぜ西欧では社会的な関係としては存在しにくいのだろうか? しかし本稿ではこの問題を扱うことを目的としていない。むしろ甘えの関係が生むストレスについてさらに考えることにする。