精神分析における倫理の問題
精神分析の世界における倫理の問題については別の論考で考察を加えている。
そこでの骨子を述べるならば、以下のとおりである。
フロイトは精神分析の基本規則として、まず患者の側の「自由連想」および「禁欲規則」を挙げた。それらは後に匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多いが、彼の時代においては倫理的であることはこれらの治療原則を守ることと同等だった。なぜなら正しい技法を用いることが患者の治癒につながると考えられたからだ。しかし当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密になるケースは後を絶たなかったが、フロイトはそれを厳格に戒めることはなかった。
やがてフロイト以降の技法論にはある変化が生じた。それは精神分析の効果判定や境界パーソナリティ障害の治療などを通して、フロイトの技法を厳格に遵守するという立場よりも、実際の精神分析の臨床場面でそれをどのように柔軟に運用するのかというテーマへ臨床家の関心が移行したからである。フロイト自身は実際にはそれとはかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn,
1998など)もその追い風になった。たとえば「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」(グリーンソン)というような分析療法を進める上での経験則が論じられるようになった。この「経験則」は時には「基本原則」との齟齬すら生じる。またオショロフVSチェスとナットロッジの裁判を通じて、精神分析がその方針や利点、そしてそれによる負荷
burdern を明確に示す必要が生じたのである。そしてそれらの流れの中で米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, Clark, 2001)を一つ一つ読むと、それが反映されていることを感じる。倫理規定は決しては、「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施しなさい」ではない。むしろ●自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。●理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。●患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならないなどの項目が見られるのである。これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではないということである。これらのことは分析家は治療原則をむしろ柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」のほうは関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。
ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」のほうは関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。