外国体験により解放される日本人たち
日本という国民性がどのような形で個人にストレスを与え合っているかを知る上で非常に参考になるのが、長期の外国滞在を体験した人たちの感想である。彼らのうち何人かが伝えているのは、海外に出ることである種の緊張感から解放され、伸び伸びと過ごすことが出来たという体験である。彼らの滞在先は概ね英語圏であるが、米国、カナダ、英国、オーストラリア、フィリピンと多様である。しかしいずれも対人間の煩わしさが少ないことに多少なりとも驚いたという。ある自傷を繰り返す20代の女性は、3か月間の米国滞在の間に一度も自傷が起きなかったという。彼らは特に英語が流暢とは言えず、日常生活におけるコミュニケーションで少なからず不自由さを体験していたはずである。しかし彼らが語るのは、「外国に出ると、人がどう思っているかをいちいち考えなくてもいい。」という体験である。そしてその理由を問うていくうちに、「彼らがそもそもこちらのことを気にしていないから、こちらが彼らのことを気にしないでも良いということがわかった」とのことである。もちろん彼らは外国人として他人からの注視を浴びるだろう。しかしその注視は、「気を使っている」注視ではない。おそらく自分のパーソナルスペースを侵してこないか、という意味での注視だ。そしてそうでないとわかると、注視をやめて、自らの関心事へと戻る。彼らは、「この人は自分に何をして欲しいと望んでいるのだろうか?」という目でこちらを見ているわけではない。「もし必要ならそういってくるだろう(自分だったらそうするだろう)」ということを暗黙の前提としている。そこにあるのは、憶測や想像力を働かせず、またその必要もないという考えである。想像力はエネルギーを使うし、誤解も多い。特に多民族国家では自分が必要なものを相手に暗に伝えるという想定はない。異郷で一人ぼっちでいることは一方では心細く、こちらのニーズを読んでもらえないことはつらいであろう。しかしその関係は互いのニーズを読みあう社会society of mutual mind-reading にはないある種の開放感を与えてもくれるのである。