2017年10月11日水曜日

精神分析をいかに学んだか? 3

脱学習とは
ここで脱学習という概念に触れておかなくてはなりません。ヘレンケラーは、私は大学で沢山学んだが、そのあと沢山unlearn 学びほぐさなくてはならなかった。さてこの脱学習の難しさは何か。誰も教えてくれない。教えられたならば、その教えてくれた人をlearn するだけになってしまう。結局学びほぐす時は全くの一人なわけです。でもそれをやらないと自分になれない。その意味では最も楽しく、また最も難しいのが、この精神分析の脱学習ということだと思います。
そこで学びほぐしについて。この絶妙な表現は鶴見俊輔のものであるという。鶴見氏はこんな体験を持ったという。戦前、彼はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。彼が大学生であることを知ると、「私は大学でたくさんのことをまなんだ(ラーン)が、そのあとたくさん、まなびほぐさ(アンラーン)なければならなかった」と彼女は言ったという。彼の頭には、型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像されたという。実は2006年12月27日(水曜日)朝日新聞(朝刊)13面「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」という記事があったらしい。実はこれをネットで手に入れたが、ヘレンケラーの話は直接は出てこなかったからこれをソースにするわけにはいかない。でもともかくもほぐす、という彼の訳語はこの毛糸のイメージから来ていると思えばわかりやすいわけだ。
学びほぐしが必要な決定的な理由
この点は特に強調したいと思います。どの理論を学ぶにしても、その理論はその論者が隠したいこと、防衛したいことを反映している可能性があります。(そういう私も実はそうしているかもしれません。)フロイト自身の理論にもクラインの理論にも、盲点があり、防衛としての側面があるからです。こう考えると理論には必ず脱学習すべき点が隠されているといっていいでしょう。
では理論は何を隠ぺいするのでしょうか? それが一番隠蔽している可能性が高いのが、理論を唱える人自身の自己愛の問題です。もう少し詳しく見てみましょう。フロイトは精神病理の根幹に抑圧された性愛性を考えた。それが人を衝き動かしたり、症状を形成したりしていると考えた。これ自体は仮説としては十分あり得ます。当時の時代性を考えると、画期的、というよりものすごく革新的だったと言えます。でもそれと同時にフロイトがある種の真実を発見し、世界をあっと驚かせてやろうと考えた、野心的で自己愛的な部分はどこに絡んでくるでしょうか? それは精神(病理)の根幹とは言えないでしょうか? しかしフロイトはそのようなあまりに人間的で世俗的なことは表立って論じる気にもならなかったのです。それは彼のプライドが許さなかったと言ってもいいでしょう。
あるいはクライン理論。メラニー・クラインの中にはかなり激しい怒りがあったことがうかがえます。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられたり、人に指摘されたりすることで誘発されます。これはコフートの言葉では自己愛憤怒です。しかしクラインにとっては怒りをプライマリーなものにすることで、自分の恥の部分の存在を認める必要はなくなります。
以上の二つは思い付きで、最近どこかで行った自己愛の講演の影響がまだ頭になるから出てきた言葉です。もっといい論じ方があるかもしれません。