2017年10月2日月曜日

脳と心を分けたがる人たち (3)

どう考えても今日の分も手抜きだ。

それでも私はほぼ毎日ある種の視線を浴びることを感じる。「あの人は脳科学の人だ」「結局心を物質に還元する人なのだ」もちろん私の被害妄想であればいいのだが、どうもそうではないらしい。患者さんにも「先生はいつも処方箋を出すだけですね」と思われている気がする。まあ、それはともかく、どうやら人は心を物質から分けておく必然性を有するようだ。
もちろんその理由は分からないが、一応次の様に理由付けしている。人は死が怖い。死を自分で体験することは決して出来ない。(それはそうだ)。それゆえもっとも未知でそれゆえ不安を掻き立てるものである。心が物質を基盤とする以上のものでなければ、意識を支える物質的基盤である脳が滅ぶことで、心の消失は確定してしまう。それはあまりに不都合なことなのだろう。

「快の錬金術」を書きながら、この心と脳の問題を常に考え続けていたといっていい。快、不快は心と脳を最も直接的につなぐものと言っていい。私たちの体験する心地よさや苦痛は、心をもっとも直接的に反映しているものと考えていいだろう。私たち、といったが実は人間を含めて更に下等な生物全体にいえることだ。下等動物にどれほど心があるかは分からない。たとえばサルだったら「我」はあるだろう。ネズミ? ギリギリか? カエルくらいになるとかなり怪しい気がする。蛾に「我」はおそらくないだろう。しかし生物はどれほど降りていっても、少なくとも快、不快はあるに違いない。それは光に群がる蛾の様子から推察される。光を求めて誘蛾灯に集まってくるからだ。もちろん彼らはロボットと同じかもしれない。しかしロボットだったら絶対に自発的には行わない交尾をしっかり行い、子孫をつないでいるのである。そのプロセスに、快を想定しない方が不自然ではないか。