2017年10月4日水曜日

学びほぐす 追加分 1

考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その療法ごとに極めて異なるということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)といった具合です。この間はある家族療法の大家が、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。
ちなみにどうして夢の解釈にしても精神療法のやり方にしてもいろいろなものが提唱されているかについて、皆さんはどのようにお考えになるでしょう?それは心の問題が私たちの理解を超えているからです。心がはるかに複雑だから、心はAである、という考えと心はBであるという考えがいつまでも両立し、拮抗してしまうからです。宇宙の成り立ちを知らない頃の私たちは、天動説と地動説の両方を唱えていたでしょう。もし天文学が中世からまったく発達しなかったら、おそらく今でも天動説はと地動説派は対立し、拮抗していた可能性があるわけでえす。認知療法と精神分析が共存して、どちらもお互いに相手を説得しえない状況は、結局複雑な心をどちらも捉えきっていないということです。まあ、それはともかく…・