2017年9月30日土曜日

脳と心を分けたがる人たち (1)

 それにしても、といつも思う。人はどうして脳と心をこんなに分けたがるのだろう? 先日あるところで脳科学と心理療法という講演を行った。すると参加者の中からこのような声が上がった。精神分析の話しか聞いたことのなかった先生がいきなり脳の話をしたのでびっくりしました。「えっ?」と私は思う。心を語る人間が脳を語ることにはこれほどの違和感が伴いかねないのだ。しかしなぜだろう? 人はどうしてそこまで脳と心をわけるのだろう? しかしそういう私もやはり同じ過ちを犯している。
死についての講演を行ったとき、私は森田療法を創出した森田正馬が死を目前にした態度についてこう伝えた。あるお弟子さんが伝えたことだが、出典は省略する。
森田正馬は,死をひかえた自分自身の赤裸々な姿を,生身の教材として患者や弟子たちに見せることによって,今日言うところのデス・エジュケーションをおこなった人である。彼は1938年に肺結核で世を去ったが,死期が近づくと,死の恐怖に苛まれ「死にたくない,死にたくない」と言ってさめざめと泣いた。そして病床に付き添った弟子たちに「死ぬのはこわい。だから私はこわがったり,泣いたりしながら死んでいく。名僧のようには死なない」と言った。いまわの際には弟子たちに「凡人の死をよく見ておきなさい」と言って「心細い」と泣きながら逝ったと伝えられている。
 森田がその人生をかけて取り組んだ死生学は、実際の死の恐怖を前にして何も意味を持たなかったのだろうか? 死を目前にしてこそその人の到達した人生哲学が明らかになるのではないか? そうだとしたら森田のそれはまがい物だったのだろうか?
この問題を考えるヒントになったのは、先日見たNHKのドキュメンタリーである。
 918日に放映されたNHKドキュメンタリー 「ありのままの最期-末期がんの“看取り医師” 死までの450日」である。末期のすい臓がんで余命わずかと宣告された田中雅博さん(当時69)。という医師のドキュメンタリーである。彼は医師として、そして僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせてきた「看取りのスペシャリスト」だ。これまで千人以上を看取った田中さんの「究極の理想の死」を記録しようと始めた撮影。しかしそれまで落ち着きを保ち、自分の死に泰然自若としていた田中さんから余裕の表情が消え、何かにおびえ、自分の立ち上げた会に最後まで出るといっていた彼が直前になって「帰る」と言い出し、「眠らせてくれ」と繰り返す。穏やかで眠るような死を迎えることを予想していた田中さんの死は、それとは随分異なる姿となった。ただ同様に医師でもある奥方の言葉は一つの考えるヒントを与えてくれる。いつもとは様子がおかしく、混乱しておびえた田中さんを見て、彼女は「譫妄が始まっている・・・」とつぶやく。

 死を目前にして精神に異常をきたし、意識障害の伴った妄想や幻覚、不安や恐怖にさいなまれる状態が譫妄である。このとき脳は明らかに通常の機能を失い、脳という精密機械の歯車が逆回転しだしたような、激しい症状を呈することがある。田中医師の最後も、それまでとは異なった、別人のような風貌を呈していたのである。