2017年9月20日水曜日

日本における対人ストレス 増補

昨日のをちょっと書き足してみた

日本社会は恥の文化と形容されたり、甘えの社会と称されたりする。これだけを見れば、一般的に人々は和を好み、平和主義的であり、争いごとを避ける傾向にあるように映る。著者も昨年の学会では、日本人の対人過敏性と非・表出性 non-expression をその文化の特徴としてあげた(201753日、台湾にて)。そこであまり強調しなかったのは、その日本社会において人は特異なストレスにさらされているということである。
個人的な体験を最初に述べておこう。私は17年間米国で精神科医として暮らし、10年以上前に記憶したが、いくつかの点で非常に驚いたことを覚えている。人々は職場に遅くまで残り、しかも有給休暇を誰もカウントしていなかった。アメリカでは有給休暇は使い切ることが常識だった。ちょうど期限切れが間近に迫ったクーポンを使うようなものである。それは個人の利益を考えればあまりに当たり前のことだった。しかし日本ではそんなことをする人は誰もいない。そんなことをしたら「周囲から白い目で見られる」のである。あるいは時間が来ても帰る人がいない、というよりそんなことをするとやはり変な目で見られる。家族の為に職場を休むことは自己中心的な行為とみなされる傾向にある。
この問題とカスタマーへのサービスとは表裏いったいであると私は思う。日本の企業も、店員も顧客にいかに心地よさを体験してもらうかを求めている。しかしそのために社員が疲弊するということにもつながる。よりよいサービス、よりよい商品を届けるためには、社員、店員の都合は二の次、という考え方がある。それに比べればアメリカの店は非常におおらかだ。店員同士がしゃべっていてカスタマーを放っておく、ということは常に起きていた気がする。もちろんそんな企業ばかりではない。米国の企業もカスタマーに奉仕するという精神が企業の成功を生む。スターバックスなどはそうであった、とある本に書いてあった。(Charles Duhigg (2014The Power of Habit: Why We Do What We Do in Life and BusinessRandom House Trade Paperbacks)でも大部分の企業ではそうならない。それは個人の都合や快適さが尊重されるからだ。日本に住んでいると自己犠牲が当たり前のようになってしまっていて、どうしてそんな毎日が送れるのだろうと疑問に思うことがある。
もう一つの原体験。これは第一の例とは見かけ上は関係がない。(あるいは本当にないかもしれない。)日本の子供は親からの過干渉に苦しむが、一つには黙ってその気持ちを汲み、知らないうちに親の支配におかれる。そしてその挙句に支配の事実を知り、親からの独立や解放を望むが、そこに試練が待っている。親が子供の意を読み取り、子供が親の意を読み取る。そこに繊細さや敏感さはあるのであろうが、同時にストレスフルな関係でもある。日本で非常に話題になることの多い「母親が重い」というテーマ。これは虐待でもネグレクトでもない別の種類の対人ストレスなのだ。米国の場合は親からのストレスを人はどのように逃れるのか? まず母親がそこまで子供に干渉しない。というのも彼女たちは自分たちの人生での楽しみを追及することの方に忙しいのである。また子供の方はパートナーを見つけて家を出てしまうことが多い。
いったいどうしてこのようなことがおきるのだろう?
甘えとの関連はどうだろうか? 日本では甘えあう関係が注目される。しかし甘えあう関係は互いをストレス下におく関係でもあるのだ。甘えの裏側には相互の支配の病理がある。対人関係における敏感さ、そして受身性。これは前年の発表において強調されたことなので、このことをキーワードにして進めてみよう。
ところでこれが依存の問題とどのように違うのか。依存の場合には、するもの、されるものという方向性が成立している。時にはそこには何らかの代償が発生するかもしれない。依存をする側はある種の見返りを相手に支払うかもしれない。ところが甘えの場合は、甘えさせる(甘やかす)側のニーズが考慮される。甘えるー甘えさせるは相互依存関係といえるだろう。しかもそれはノンバーバルなプロセスであり、契約は存在しない。そしてそのことが相互にとっての負担にもなるのだ。例として、ABに甘えるという状況を考えよう。ABに甘える際、Bがそれを受け入れることを前提とする。もしBにその用意がない場合、Bにとってはそれは負担となり、ストレスとなる。なぜならその甘えニーズを満たすことについては暗黙の強制力が働くからである。その強制力はおそらく日本社会における常識や周囲の目が大きな力を発揮するであろう。