2017年9月21日木曜日

第10章 トラウマと精神分析 (2)②

このような事情から解離性障害はPTSDとともに、トラウマ関連障害の代表的なものであると理解されている。しかしトラウマと解離性障害の発症との因果関係を示すことは、実は決して容易ではないという事情がある。PTSDの場合はトラウマの多くは成人期のある限定された機会に生じたもの、あるいは一回限りのもので、そのトラウマはPTSDの発症に先立つ3ヶ月以内に見られることが多い。またそのトラウマはそれを引き起こした出来事が実際に報告されていることも少なくない。たとえば19951月の阪神淡路大震災の後に多くの被害者がPTSDを発症したという事実が知られるが、その大震災そのものは世間では誰もが共有している客観的な事実である。ところがDIDの場合は、既に述べたようにその原因となるトラウマの多くは、幼少時にさかのぼることが多い。そのためにその事実関係や背景となる事情に客観的な裏付けを与えることはそれだけ困難となるのである。
解離とトラウマの関係が認識されなかった時期
病的な解離とトラウマの関係が本格的に注目されるようになったのは、比較的最近のことである。それまでは解離という概念そのものが一般に知られていなかった。解離という概念が19世紀末にジャネらにより用いられるまでは、それぞれの現象に異なる呼称が与えられていた。それらは夢中歩行、催眠、交霊会、憑依、話す文字盤等と呼ばれた。また深刻な解離現象としてはヒステリーとして一括されて扱われてきた。そしてそれらの現象とトラウマは別に結び付けられてはいなかったのである。ヒステリーに関してなどは、それが女性にのみ見られ、女性の性的な欲求が満たされないために子宮が遊走することが原因であるなどという妄言が支配的であった。
 18世紀にいわゆる「動物磁気animal magnetism」を考案したメスメルは、事実上催眠を通して解離現象を治療的に扱った最初の臨床家の一人と考えられている。その弟子のひとりであったM・ピュイセギュールは、いわゆる「受身的な発作passive crisis」において、人格の交代が起きることを発見した。そして同様の現象は、ヒステリーで生じやすいことを見出した(10)。
 その後の催眠の臨床的な応用の歴史については、以下のシャルコーに関する記述に譲るが、メスメルに始まる催眠療法の流れは現在まで連綿と続いている。しかしそこでは被催眠性とトラウマとの関係性は積極的に論じられない傾向にある。近年の催眠学界に大きな影響力を及ぼしたミルトン・エリクソンの著作にも、トラウマの問題はほとんど扱われていない(25)。また近年ヒルガードにより提出された「ネオディソシエーション」の理論(13)についても同様である。
 ヒルガードは催眠の際に、被験者に「これから痛み刺激を与えますが、それをあなたは感じません」という暗示を与えた。そして催眠状態において彼に痛み刺激を与えて、それを彼が感じていないということを確かめた。その後に被験者の中に「隠れた観察者」を呼び出すと、その観察者は痛みを感じていることを伝えた。ヒルガードはこのように人の意識には観察している部分が別に備わっており、それが分離して振舞うという様子を示したのである。
最近の「被催眠性の高い人々 The Highly Hypnotizable Person」という著作(12)は、現代において催眠の立場から解離現象をどのようにとらえるかを知る上で参考になる。高い被催眠性を有する人々には、解離性の病理を有する人が含まれる可能性が高いからだ。しかしそれを参照しても幼少時のトラウマと被催眠性を関連付ける記載は見出せない。それは催眠の研究者たちが、むしろ被催眠性を一つの能力として捉え、治療に積極的に用いるという傾向と関係しているであろう。その立場からは、解離傾向を幼少時のトラウマに起因するものという捉え方はなじまないことになる。本来催眠の立場からの解離の理解は、その由来ではなく、その現時点での意識の構造に向けられるものなのだ(9)。
解離とトラウマ:シャルコーの果たした役割

解離とトラウマに関する理解が進められた歴史の中で、ジャン=マルタン・シャルコーの果たした影響は極めて大きかった。彼はそれまで医学の俎上にすら載らなかったヒステリーが、トラウマや身体的な外傷を基盤にして生じるという点に注目をし、同時代人のフロイトやジャネに大きな影響を与えたのであった。
 シャルコーの影響下にあって催眠を学んだフロイトは、ウィーンに戻ってから催眠を用いてヒステリーの治療をおこない、ヒステリーの性的外傷説(性的誘惑説)を唱えた。1896年に発表した「ヒステリーの病因について」(11)で、フロイトは自らが扱った18例のヒステリー患者全員に、幼児期の性的な誘惑という形でのトラウマがあったと述べている。しかしその翌年には、この説を放棄し、その後精神分析理論を打ち立てることとなった。フロイトがやや唐突な形で行ったこの方向転換の経緯は、その後ジェフMマッソン(17)
によりややセンセーショナルに報告されたことで物議をかもしたことは知られる。
 
マッソンは、フロイトは実はヒステリーがトラウマにより生じるという考えを捨てたわけではなかったが、それにより精神分析が社会から受け入れられなくなることを恐れて取り下げた、と論じた。このマッソンの見解は賛否両論を呼んだが、そこで問題とされた性的なトラウマの記憶の信憑性をめぐる議論は、現在においても常に再燃する傾向にある。ちなみにこのフロイトの性的外傷説(性的誘惑説)については、筆者はそこに誘惑する子どもの側の加担を想定しているという点で、本当の意味での外傷説ではなかったと考える(21)。
 解離とトラウマとの関連性に関する議論を進めた点でやはりジャネの功績は非常に大きなものであった。ジャネは解離性の人格交代を示す患者に関する詳細な記録や観察を行い、現代でも通用する解離の理論を残した。彼は解離がトラウマと深い関係にあるとしながらも、フロイトのようにトラウマ記憶の回復を主たる治療手段とはしなかった。またフロイトに見られたような、性的外傷に全てを帰するという理論には批判的であったという(8)。トラウマと解離の関係について、ジャネは「トラウマ後のヒステリー」と「トラウマ後の精神衰弱」という分類をおこなっている。前者は記憶が解離しているのに対して、後者では記憶は意識下にあり、繰り返し強迫的に回想される傾向にあるという。またジャネは彼が解離の陽性症状(メンタルアクシデント)と呼ぶものについて特にトラウマに関係しているとし、またトラウマの強さと持続時間により、人格の断片化が増すと考えた(8)。しかしジャネが治療で目指したのは、フロイト試みたようなトラウマ記
憶への直接的な介入ではなく、あくまでも人格の統合を目指したものであった。