日本における対人ストレス ― 甘えの裏側の病理
日本社会は恥の文化と称されたり、甘えが許容される社会と理解されている。一般的に日々とは和を好み、争いごとを避ける傾向にある。私はこのような特徴を対人間の敏感さと受け身性という観点からかつて捉えたことがある。しかしそこであまり強調しなかったのは、その日本社会において人は特異なストレスにさらされているということである。
個人的な体験。帰国して驚いたことは、有給休暇を誰もカウントしていなかったこと。アメリカでは使い切ることが常識だが、日本ではそんなことをする人は誰もいない。あるいは時間が来ても帰る人がいない、というよりそんなことをすると変な目で見られる。一体どうしてだろう? もう一つの原体験。日本の子供は親からの過干渉に苦しむが、一つには黙ってその気持ちを汲み、知らないうちに親の支配におかれた挙句にその事実を知り、親からの独立や解放を望むが、そこに試練が待っている。親が子供の意を読み取り、子供が親の意を読み取る。そこに繊細さや敏感さはあるのであろうが、同時にストレスフルな関係でもある。日本で非常に話題になることの多い「母親が重い」というテーマ。これは虐待でもネグレクトでもない別の種類の対人ストレスなのだ。米国の場合は親からのストレスを人はどのように逃れるのか? まず母親がそこまで子供に干渉しない。というのも彼女たちは自分たちの人生での楽しみを追及することの方に忙しいのである。また子供の方はパートナーを見つけて家を出てしまうことが多い。
甘えとの関連はどうだろうか? 日本では甘えあう関係が注目される。しかし甘えあう関係は互いをストレス下におく関係でもあるのだ。甘えの裏側には相互の支配の病理がある。対人関係における敏感さ、そして受身性。これは前年の発表において強調されたことなので、このことをキーワードにして進めてみよう。