2017年9月12日火曜日

精神療法と倫理 推敲 ①


 精神療法における倫理

精神療法において問題となる倫理

精神療法における倫理の問題は極めて重要である。臨床家としての私が常日頃それを思うのにはある理由がある。

事例 (省略)

このカウンセラーの取った行動は特に駆け出しのカウンセラーにはありがちな対応であろう。そこで問うてみる。このカウンセラーの行動は倫理的だったのだろうか?
もちろん一概にこのセラピストの行動の是非を論じることが目的ではない。一つ考えていただきたいのは、このセラピストの行動に関連した倫理性には、大きく分けて二つが存在することだ。
①   クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
②「治療者としてすべきこと(してはならないこと)」に従った行動だったか?
私が長年のスーパービジョン体験から感じるのは、このうち②に関連した懸念が少なくともセラピストの意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「セラピストとして正しくふるまっているのか」という懸念は、おそらく大半の経験の浅いセラピストの頭の中には常にあろう。彼らはスーパーバイザーに治療の内容を報告しなくてはならない。そこでは「それは治療者としてすべきではありません」と言われることへの恐れがある。そしてそれは多くの場合、①を検討する機会を奪うことにつながる。またもしクライエントが自分の気持ちを汲んでもらえなかったとしても、それを直接治療者に訴えかけることはあまりおきないであろう。その結果としてクライエントは気持ちを無視され、いたたまれない気持ちになってしまう可能性がある。
ところでこのような問題を考える際に、倫理に関するある理論が助けとなる可能性があるが、そのことは臨床家の念頭にはないことが多い。それは1970年代より倫理に関して提唱されている、道徳的倫理か、慣習的倫理か、という分類である。その提唱者の代表である Elliott Turiel は、道徳的な決まりmoral rulesと慣習的な決まりconventional rulesとの区別を挙げ、次のように説明する(Kelly, et al, 2007) 。「前者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出るが、後者は地域や文化に依存し、守られない場合に具体的な被害者が出ない。」この分類は前出の①,②に相当することは明らかであろう。そして臨床家が①、②のどちらを優先させるかで、その振る舞いはまったく異なったものとなるであろう。もちろんこれら①、②に優劣はない。これらは倫理側の異なる側面であり、どちらが優先されるべきかは状況に依存する。しかし Turiel が示す通り、慣習的な決まりを犯しても具体的な被害者が出ないのに対して、道徳的な倫理を犯した場合には患者が犠牲になることは少なくないという事情がある。それはたとえば治療構造を守る()ことで患者の気持ちがくみ取れなくなる()という形を取ることになる。

Turiel, E. 1979: Distinct conceptual and developmental domains: social convention and morality. In Howe, H. and Keasey, C. (eds), Nebraska Symposium on Motivation, 1977: Social Cognitive Development. Lincoln: University of Nebraska Press.
Kelly, D., Stich, S., et al (2007) Harm, Affect, and the Moral/Conventional Distinction. Mind & Language, Vol. 22 No. 2 April 2007, pp. 117131.
  
治療技法と倫理との関係
上に精神療法においては道徳的倫理と慣習的倫理が問題とされ、一般に後者が重んじられる傾向について論じた。そこで話を戻し、そもそも精神療法における倫理の問題がどのような変遷をたどったかについて論じたい。
別の論文(岡野、2016)でも論じたが、精神療法における倫理の問題は、精神分析における倫理の問題を振り返ることでその歴史的なプロセスの大筋を追うことが可能であろう。
フロイトが精神分析を生み出した当時、分析家の倫理性を問う表立った必然性はなかったと言っていい。あえて言うならば、精神分析的な原則に従うことが倫理的でもあったのだ。精神分析の原則に従うのが正しい治療である、という考えはフロイトの理論の提示の仕方に由来すると言っていい。フロイトがは多くの治療原則を明確に、あるいは暗黙に設けた。それらには禁欲規則、自由連想、受け身性、匿名性等があげられよう。そして解釈の重要性を「金」と呼び、それ以外の治療手段を「混ぜ物(合金)」と呼び、後者に大きな価値下げを行った。それ以来精神分析理論を行うものにとっては、この規則を遵守することが正しいことと考えられた。症状の改善や行動の変化は、いわば歓迎すべき副作用ではあっても、治療の本質とは関係がないとされたのである。Quoted in Roazen, 1975, p. 146)
MacKendrick, K (2007) Discourse, Desire, and Fantasy in Jurgen Habermas' Critical Theory, P83, Routledge.
フロイトは本来人間の倫理性に対しては悲観的な見方をしていた。1818年オスカーフィスカーにあてた論文で、彼は次のように述べる。「倫理は私には遠い存在です。(中略) 倫理に関しては、私は高い水準のものを持っていますが、私が出会った人たちは無残なまでにそこからかけ離れています。」