2017年9月11日月曜日

第8章 終結を問い直す ②


心理療法の場数をこなし、ケースの中断という事態をある程度客観視できるようになると、また反応も違ってくるものだ。しかし治療者にとってイニシャルに近いケースだと、ケースに関して起きる不都合なことはすべて、自分に責任があると考えてしまう。しかも「何が悪かったのか?」の決め手が通常は得られない。クライエントはその理由をわざわざ説明しに来てはくれないからだ。(上にあげた例はどれも、主治医の私が治療者に紹介したクライエントたちがドロップアウトした後に語ってくれた内容である。)すると、何もかも、すべて自分が悪かったのだ、ということになる。初心の治療者は、こうしてますます自信を失っていく。
 私はそのような「手負い」の治療者が救われる唯一の方法は、自分を選んでくれる患者の登場であると思う。そう、クライエントのドロップアウトによる傷心の治療者救い出し、育て上げてくれるのもまた、クライエントの存在なのである。おそらく心優しく、時には厳しいスーパーバイザーの存在よりも。逆に言えば、そのようなクライエントにいつまでたっても出会えないとしたら、その治療者は仕事を変えることを真剣に考えなくてはならないだろう。
心理療法家がこのドロップアウトとそれからの立ち直りをその生業の初めに体験することの意味は大きい。それはある重要な現実の体験である。クライエントは支払うお金と費やす時間に見合ったものを受け取ることができないセッションには来ない、ということだ。クライエントはその点に関してはあまり偽らないし、そこには遠慮も気遣いも少ない(あったとしても、通常の社交上働くそれらに比較すればかなり少ないだろう)。心理療法は実力社会であり、クライエントはこちらの力量を推し量り、来る価値がないと判断したセッションには現れないのである。これほど正直なフィードバックはあるだろうか?心理療法家はそのような厳しい体験を通して、自分の仕事を確立していくのである。

治療は本当に終わるのか?
そもそもラポールを形成する段階まで進んだことのない初心の治療者にとっては、その先の治療過程を経て、終結や別れの作業に至るプロセスは、遠い苦難の道の末の出来事と想像されるかもしれない。しかしあるクライエントに選んでもらえた治療者は、あたかもクライエントと一緒にストーリーを読み進めるようにして歩を進めていく。時にはクライエントが先導してくれたりもする。それは苦難とは程遠く、興味をそそりワクワクするようなプロセスであろう。しかしそれはまた心を痛め、ハラハラし、自らの人生を振り返る機会となるような経験でもありうる。私は終結とは、そのストーリーの結末、結論、集大成、とは考えない。むしろそのストーリーに附属するもの、たまたま訪れる一区切り、というニュアンスの方が近いのではないかと思う。その意味では、終結は人間の死に似ている。
少し極端な問いかけをしたい。「治療関係に終わりはあるのだろうか?」もちろん精神療法に終わりはつきものだ。開始された心理療法と同じ数の終結や中断が生じるはずである。しかし終結や中断は、定期的て継続的ななセッションの終了を意味してはいても、それで治療者とクライエントの関係が切れるわけではない。こう考えることは、終結を重んじ、それに向かってワークするという分析的な立場とは異なるということも確かであろう。しかしこう言ってはなんだが、終結をきちんとしたいというのは、実は治療者の側の理屈であり、ニーズであったりする。
治療関係はいったん始まったら永久に終わらない、というのは暴言であろうか?しかし私たちはなぜ、一度治療関係に入ったクライエントとは、治療終結後も私的な関係に入ることを非倫理的と考えるのだろうか?終結した患者は、いつ何時また問題を抱えて舞い戻ってくるかもしれない。それを二度と受け入れないという理屈を治療者は持っていないはずだ。もしそうだとしたら終結自体が一区切りという意味での仮のもの、ということになりはしないだろうか?少なくともクライエントの側は、「また何かあったらおいでください」と治療者から送り出してもらうことを望んでいないだろうか?
その意味では治療関係に入るということは、その瞬間が、通常の人間関係の終わりであるとすら言える。私は昔精神科の外来で出会い、人間的にも惹かれると感じた相手(患者とはあえて呼ばず)と、今こうして治療者患者関係に入ることで、決して私的な関係には入れない関係になってしまっていることに思い至り、不条理さを感じたことがある。初診面接とはその人とのパーソナルな関係の可能性の終わりであり、いつ終わることもない治療者クライエント関係が始まりでもあるのだ。
終結したクライエントが舞い戻ってくることに治療者が心の準備をしておくという立場は、「一度終結したらもう会わない」という、多くの分析家が持っている立場とはかなり異なる。しかし精神科医として臨床に携わる際には、前者の方が普通であり、医師も患者もそれを前提としている。臨床心理士やカウンセラーも同様であろう。そのようなケース、いわば常連さんが心理士の生計を支えていることすらありうる。そしてこのことは、例えば弁護士にしても税理士にしても、おそらくあらゆるサービス業について言えることだ。彼らにとっては終結や中断は、一区切りであり、関係自体は永続的なのである。

一番多い「自然消滅」のパターン

通常の、特に精神分析的な構造を持つことのない、上述のような明確な終わりを持たない心理療法は、実際どのような「終わり方」をすることが多いのだろうか?私の体験を少し書いてみたい。
私はこれまでに、数多くの心理職の方々の心理療法を担当する機会を持ったが、彼女たち(女性の方が多いのでこのように呼ばせていただく)がドロップアウトするということは、まず考えられない。彼女たちはきちんと終結の予定を立て、そのためのワークを行い、そして去っていく。それにはそれなりの理由があるのであろう。彼女たちが臨床心理職として心についての作業を重ね、治療のプロセスについてもその意味を自覚し、その心理的な起承転結をわきまえている可能性があるだろう。またドロップアウトの持つ破壊性を身をもって承知している彼女たちが、それを自らが行うことには大きな抵抗を感じるということもあろう。さらには狭い業界であるために、いずれは治療者と別の機会で顔を合わせることも多く、あまり失礼な終わり方は出来ない、という思考が働くかもしれない。
それに比べると一般のクライエントの終結の仕方はずっとそっけなく、また自分本位(いい意味を含む)であることが多い。彼らはそれほど、あるいはまったく「きれいな終結」を意識しないであろう。そこにはむしろ現実的な事情が働き、偶発的でより自然な形での終結、私がここで「自然消滅」と呼ぶプロセスがかなり多く見られる。
「自然消滅」それ自体はシンプルな理由で生じる。冒頭で「治療の終結は、クライエントの側に治療継続の動機付けがなくなるから」という言い方をしたが、それがここに当てはまる。クライエントは治療の継続する一定の期間を通じて、治療者から「何か」を受け取るのだ。それは人生の難しい局面に差し掛かっているクライエントへの、洞察を促すような介入かもしれないし、治療者のある種の情熱かもしれない。「安全基地」や「抱える環境」の提供でもありうる。治療が継続する限り、クライエントは治療者からの「何か」にそれなりの満足を得るだろう。しかしそれと同時にクライエントは幾分かの不満をも持つはずである。「こんなものだろうか?」「別の治療者ならもっとしっかり話を聞いてくれるのだろうか?」「少しもよくなっていないではないか。」そのうち「この治療者との関係では、これ以上は望めない。もちろん精一杯やってくれたことはわかるが。」などの気持ちを抱くはずだ。これは程度の差こそあれ、必然的に起きる。いかなる治療も理想化された関係性の不完全なる代償に過ぎないからだ。そして治療者の側も、「自分はもうすでに力を尽くした」や「もう伝えるべきものは伝えた」という感覚、あるいは「自分には力不足だった」という思いが起きるようになるだろう。あるいは「そもそもクライエントが安くない料金と貴重な時間を費やして通ってくるのに見合うだけのものを自分が提供できていないのではないか?」などとも考えるかもしれない。
 この治療者とクライエントの思いは、通常はある程度通じ合うものなのだ。両者はおおむね歩調を合わせて治療の終了に向かう。そしてここが「自然消滅」の特徴なのだが、このプロセスは通常は、それについての話し合いや言語化などがあまり行われないのである。あるいはたとえ言語化が行われたとしても、それによっては触れられない終了へのプロセスの主体は非言語的に進行して行く。
そのようなドロップアウトでもない「自然消滅」の実際の起こり方も、既にみたドロップアウトのプロセスと少し似たような過程を経る。徐々にキャンセルが増えていく。毎週から隔週へと、セッションの間隔があいていくという形をとることもある。一セッションごとの料金が高く設定されている場合には、この頻度の変化はかなり明確な形でその動機の低下を反映しているであろう。ただしこれには患者の仕事やスケジュールの変化が、その直接的な根拠として絡んでいたり、治療者の側の都合が重なっていたりする。そしてふと気がつくと、12ヶ月ほど、あるいは半年ほど会っていないということが起きてくる。お互いに「自然消滅」が起きかけていることを意識しているのだが、それについての口は重い。それを言語化することはよほどシンドいのである。
さて心理療法において終結は大切であるという意見を持ちつつも、私はこの言葉にならない終了プロセスもまた味があると思っている。それは何よりも治療者とクライエントの両者が、それを体感し、味わっているからである。私は別れは言葉を交わすことではなく、味わい、感じ合うものであると思う。それは時には言葉にすることで、その重要な性質が損なわれる性質のものであるかもしれないのだ。敢えて言えば、すべて言葉にするのは、日本の文化に必ずしもそぐわないという気もする。取り立てて口にせず、しかし別れが近づくのを味わう。ここで口にしないのは相手への気遣いでもある。
 大切な人との別れの日に、一言も言葉を交わさずにいつもの道を歩いた、という体験を、私たちは持っていないだろうか? 言葉にしないことで耐えられる別れがある。あるいは別れそのものがはるか先に進行してしまっていて、言葉では追い付かないのだ。それはもちろんフロイトに言わせれば、「別れの辛さを否認している」ことにもなるかもしれない。しかし言葉にしないことで味わう別れもあるのではないだろうか? それが精神療法において生じることも自然なことだと私は考える。
この「自然消滅」のもう一つの特徴としては、クライエントの側に、あるいは治療者の側に、「いざとなったらまた会える」という気持が残されているという点が挙げられる。そこら辺をあいまいにする意味でも、別れをあまり口にしないというところがあり、この側面はまさに否認であり防衛かもしれない。でもそれさえ奪い去る根拠があるかについては、私には自信がない。

私はこの種の自然消滅的な終結を考えた場合、親子関係を二重写しにしている。あれほど濃密な時間のなかで、あれほど親を必要とし、親の側も自分の存在がこれほど求められるのだと感じていた子供との関係が、ある時期からどんどん遠ざかっていく。気がつくと子供は自分たちを必要としていないどころか、ことさら遠ざかっていこうとするのである。あたかも自分の世界を築くためには、親との関係はかえって足かせになるとでも言わんばかりに。そしてある日家を出て行ってしまう。時にはほとんど喧嘩別れのようにして。親は自分の命が少し軽くなったことに少しホッとすると同時に、一抹の寂しさを覚える。
 ところが子供の方も親のほうも、関係が終わったとは露ほど思っていない。子供の方は、「今はとりあえず必要ない。でもいずれはまた帰っていくだろう。」程度の気持ちはある。親のほうも「今は自分の人生で精一杯なのだろう。でもやがて帰ってくるだろう。」実はその「帰っていく」は盆暮れや法事程度なのだ。それこそ親の臨終のときでなければ、あるいはそのときになっても「別れ」は告げられない。それどころか、親の側が「私ももう長くは…」とでも言おうものなら「何を言っているの?」とすぐにでも否定されてしまうのがふつうである。こうして決定的な別れの言葉は回避され、その代わり別れはより心に刻まれるのである。こうして私たちの人生における別れは「自然消滅」の形をとる。