2017年9月3日日曜日

第6章 無意識を問い直す ①

6章 無意識を問い直す-自己心理学の立場から

自己心理学における無意識のとらえ方と治療への応用


精神分析は無意識を扱う学問であるということは、あまりに当然すぎる。しかし分析家たちは、無意識をあまりにも簡単に扱っていないだろうか? いや、無意識という概念が簡単に扱われていると言っているわけではない。フロイトが述べたような無意識、すなわち抑圧された心の内容がそこに見出せるような場としての無意識の存在を前提とすると言うことに、あまりに無反省ではないか、と問うているのである。
しかし一方では、無意識の重要性を否定はしないものの、そこから中心点をずらせた分析理論も存在する。広い意味では自我心理学がそうであろう。自我心理学は無意識的な慾動を解釈により明らかにするという試みから、その際に自我により動員される抵抗や防衛に視点を移したのである。そうしてもうひとつがコフートの自己心理学である。自己心理学においては共感という概念の重要性が問われる一方では、そこに無意識がどのようにかかわるのかについての議論は少ない。本章ではこの自己心理学において扱われる無意識を通して、無意識という概念について考え直したい。
コフート理論にとっての無意識とは何か? この問いがある意味ではすでに逆説的といえるだろう。もちろんコフートは無意識の存在を真っ向から否定しているわけではない。しかしその概念にほとんど触れることなく、むしろ自己と他者との関係性にその関心を向けたのである。それは事実上無意識を扱わなかったと言われる可能性すらあろう。
「内省・共感」は無意識に向けられるのか?
  コフートが1971年に「自己の分析」(Kohut, 1971) により、独自の精神分析理論を打ち出した時、その理論的な構成が従来の精神分析とは大きく異なることは明白であった。特に自我ego に代わる自己 self の概念や、共感の概念は極めて革新的といえた。コフートはそれを従来の精神分析に対する補足であるとしたが、当時の精神分析界からはそのような受け止められ方をされなかったのも無理はなかったのである。
 コフート理論の実質的なデビューは「自己の分析」に10年以上先立つ1959年の論文であった。「内省、共感、そして精神分析」(Kohut,1959というその論文は、その後に展開する基本的な概念のいくつかを旗幟鮮明な形で打ち出している。それは「ミスター・サイコアナリシス」とまで呼ばれていたコフートが打ち出したまったく新しい路線だったのである。そこでこの論文をもとに、コフートにとっての無意識の概念について探ってみよう。
 この論文でコフートは、内省と共感が精神分析にとっていかに重要かについて繰り返し強調している。彼は共感とは「身代わりの内省 vicarious introspection」であり、人の心に入り込んで我がことのように内省をすることだと説明する。それ以後これら両概念がほとんどペアのように登場するため、本論文でもこれ以降は「内省・共感」と表記することにしたい。
 実は古典的な意味での無意識の概念とコフート理論とは、この内省・共感を強調した時点で折り合いがつかなくなっていると言ってよいだろう。そもそもフロイトにより始まった精神分析とは、つきつめて言えば、無意識を理解する営みである。他方内省とは、自分の心の中を見つめることであり、その対象は理論的には意識内容ということになろう
 内省を、心といううす暗い部屋の中をサーチライトで照らす行為にたとえてみよう。そこで照らされる内容は今、この瞬間に意識化されていること、意識内容ということになる。そして照らそうとしても見えないものが無意識であり、それはその部屋にある特別な箱に入っていて、ふたが閉まっており、サーチライトで照らしても、その中は見えないことになろう。(中略)