2017年9月27日水曜日

日本における対人ストレス (3)

二つの皮膚自我の相違

この文脈で、皮膚自我と言う概念について論じたい。フランスに留学していた頃(1986年、とんでもない昔)Didier Anzieu という人の”le Moi-Peau” という本が売り出された。Skin-Ego ないし皮膚自我と言う概念についての本だ。スキンエゴ、とか言うともっとらしいが、フランス語の「モワポー」って何や、変な語感だな、という印象を持った。この皮膚自我の概念はただものではなく、生物の由来として、神経と皮膚が伴に外胚様系と言う共通の起源を持ち、感覚のオリジンは皮膚感覚であり、・・・というような難しい話から入り、フロイトの概念との様々な交錯について語り、ギリシャ神話に遡り・・・つまり思弁的なフランス人に特徴的なムズかしい本なのだ。
 他方驚きなのは、皮膚自我は日本の鑪 (タタラ)幹八郎先生という精神分析の大家が独自に打ち立てた概念でもあるのだ。彼の理論に「アモルファス自我論」というものがある。そしてそこにこの皮膚自我と言う概念が出てくるのだ。彼はこれをアンジューとは別に(というか彼の「モワポー」理論は知らずに)提唱している。要するに日本人においては、社交的な文脈での皮膚が自我の重要な役割を占めるという理論だ。「顔色を伺う」という表現を見れば分かるだろう。相手の表情を見ながらこちらの表情を決める。相手の振る舞いから内側の心を察する。この理論をそのままウィニコットの偽りの自己、本当の自己の概念と組み合わせてもいいだろう。言うならば、日本人にとっては、偽りの自己に主たる重きが置かれ、本当の自己こそが形骸化していたり、空虚だったりする・・・・・。待てよ、そんなことを言ったら、日本人は精神病水準ということになってしまわないか?否、そんなことはないだろう。ただしこの皮膚自我の概念は、それを通して、true self, false self という概念はいったいなんだったんだ、ということを考えさせられるようなものでもあるのだ。