2017年9月26日火曜日

日本における対人ストレス 続き

外国体験により解放される日本人たち
日本というお国柄がどのような形で個人にストレスを与え合っているかを知る上で非常に参考になるのが、長期の外国滞在を体験した人たちの感想である。彼らのうち何人かが伝えているのは、海外に出ることである種の緊張感から解放され、伸び伸びと過ごすことが出来たということである。彼らの滞在先は、米国、カナダ、英国、フィリピンと多様であるが、いずれも対人間の煩わしさが少ないことに多少なりとも驚いたという。ある自傷を繰り返す20代の女性は、3か月間の米国滞在の間に一度も自傷が起きなかったという。彼らが一様に英語が流暢とは言えず、日常生活でそれを不自由に感じながらも、同時に自由さを味わったということは特筆するべきであろう。ある人が語ったのは、「外国に出ると、人がどう思っているかをいちいち考えなくてもいい。」という。そしてその理由を問うていくうちに、「彼らがそもそもこちらのことを気にしていないし、彼らがお互いにそうしていない」ということに行き着いたという。私は海外の生活が長かったが、そのニュアンスはよくわかる。しかし彼らに気遣いがないというわけではない。たとえば私はドアを人に続いて入っていく時に、ドアを開けて待ってくれるという配慮を米国では当たり前のように感じたが、日本では以外に希薄であることに気が付いた。また日本ではあまり交わさないような挨拶も、米国では当たり前である。これはなぜだろうと考えると、一つの考えに行き着く。日本の社会では、人の気持ちを単に感じるだけでなく、「読む」という部分が入ってくる。相手が痛みを感じているとする。米国人も日本人も、相手の痛みを感じ取るところまでは同じだ。しかしそこから違うのが、相手がそれをどのように望んでいるかを米国では読んでもらうことを期待しないのに、日本においては、「読む」ことを期待され、それにこたえるようにして「読む」。しかしこれは出口のない展開を見せてしまう。「相手が読んでいるかを読む。」「相手が読んでいるかを読んでいるかを読んでもらう。」・・・・・。日本におけるコミュニケーションのパターンはこれなのだ。そしてこれは甘える、甘えられるという関係に似ている。「相手にこちらの気持ちを分かってもらうことを期待する。」「わかって欲しいと期待している気持ちをわかる」「わかって欲しいと期待している気持ちをわかってもらうことを期待する」…。無間地獄である(大げさだ)。
ともかくも海外に出た若者。この無限・・・から解放される。こんなサラッとした関係があるんだ、と分かる。自分はこれまで何をしていたんだろう。

日本は甘えの社会である。それはお互いに甘え欲求をわかることで成り立つ社会である。それは一つのルールとも言えるだろう。そしてそれを知らなかったり扱えなかったりするとうまく生きていけていないのである。