2017年7月4日火曜日

脳科学と精神療法 ③

 脳の可視化が進んだ結果として、こんなことがあるということの例を挙げると、患者さんの訴える幻聴があります。我々は幻聴というのは幻であって気のせいだと考えていたわけですが、ところが幻聴の際に後頭葉の一次聴覚野の活動が検出されているということがわかりました。一次聴覚野に興奮が見られるということは本当に声として体験されていたのだ、ということが分かったわけです。
 プラセボ効果やノセボ効果では実際に何が軽減したり低下したりするのか。例えば乳糖の錠剤を飲んでもらって痛みが軽減した被験者がいると、それはプラセボ効果であり、この患者さんは気のせいで痛みが軽減しているだけだろうと思うんですけれども、fMRIで見ると皮質の様々な部位であたかも実際に鎮痛剤を飲んでいた時と同じような変化が起きていることがわかった。一体これはなんだ、ということになったわけです。私が個人的に面白いと思ったのは、安いワインを飲ませて、これは高いワインですと伝えると眼窩前頭皮質が活動するというのがあります。つまり本当に美味しくなるということが起きてしまう。つまりプラセボ効果も本当に痛みが軽減することがあるということが、脳の活動の可視化によってはじめてわかるというわけです。ちなみにこのプラセボ効果は、脳内麻薬物質の拮抗薬であるナロキソンで低下することが分かっています。 
 脳の可視化によって我々が何を教えられたかというと、患者さんの話をもうちょっと素直に聞きましょうということです。例えば患者さんが目が見えないと言いながら実際には障害物を避けて歩いているということがあります。これは精神盲という状態です。そうすると「あの人は本当は見えているんだろう」みたいに考えがちですが、脳科学的にみたら感覚的には見えてないんだけど、意識下には「ここには障害物がある」ということが入ってくるわけです。このような傾向に対して、医療者側はずっと信じようとしなかったんです。このように脳の可視化によってわかってきていることは、患者さんの言っていることは大概は本当だということです。脳科学の発展は、「患者さんの話により耳を傾けましょう」という教訓を生んでいるということになります。


 ここでアスペルガー障害の脳の知見を少しご紹介したいわけですが、もちろん私はすべて把握しているわけではありませんけれども、アスペルガー障害については非常に興味があります。アスペルガー障害というのは定型発達とは異なる脳の部位を使って情報が処理されていることが分かっています。彼らはわざとことさら人の気持ちがわからないように振る舞っているだけでではなく、実際に本当にわからないわけですが、そのような時は脳の別の部位を使っている。この画像をご覧ください。こちらが顔面の認識で、こちらが物体の認識です。


顔面の認識に関しては異なる部位がアスペルガー障害の場合に起きていることが示されています。皆さんも論文をご覧になったかもしれないんですけれども、右の下側頭回の活動が増えて、右の紡錘状回が減るということが起きている。要するに脳の違う部位を使ってアスペルガー障害の方は物を識別している。特に物ではなくて人の顔。つまり、たくさんの情報が入ってくるような「生もの」に関しては別の脳の部位を使って認識をしている。
 アスペルガー障害はいわゆる共感回路 empathy circuitに障害があるということです。ここれは腹内側前頭前野です。この部分が、普通の人なら共感回路というふうな形で使われるんだけれども、アスペルガー障害の場合はそう使われない。共感が難しいというのは脳の器質的な問題というふうに研究者が主張しています。
 以上いくつかの例を見ていただきましたけれども、脳の可視化が我々の脳の理解に及ぼす影響というのはそんなにないかもしれない。要するに可視化が進むことでいかに脳が複雑なのかということがわかったとしても、それ自体が脳の在り方をどの程度教えてくれるかと言えば、大したことはありません。あいかわらず謎だらけなのですから。しかしそれが精神療法に与える影響は大変大きかったわけです。なぜなら患者さんの訴えのうち、かなりの部分が脳科学的にみても可視化されることで、その信ぴょう性が深まったわけですから。
 これからニューラルネットワークとしての脳ということで今日一番お話したい内容に入っていくわけですけれども、まずはとっかかりはフロイトです。脳科学者としてのフロイト。フロイトは根っからの生物学者であり脳科学者であった。フロイトはニューロンを発見した何人かの一人でした。はじめは研究者を目指して実際にウナギの生殖器の研究などを行った。その後、ブリュッケ教授の下で研究を行った。彼は極めて典型的な決定論者であった。こんなデッサンを彼はしています。φψという2種類の神経細胞があって、φの場合にはそこで信号の流れがせき止められ、ψの場合にはここを通過する。この2種類の神経細胞があるという仮定をもとに、そこから心の在り方を一生懸命組み立てようとしたんだけれども、さすがにこれだけでは全然無理でした。ヘルムホルツ学派であったフロイトが依拠していたのはいわゆる水力モデル hydraulic model です。つまり、抑圧、あるいは抑制によって圧力が鬱積すると不快になり、それが解放されると快につながるという非常にシンプルな理解の仕方をしています。フロイトの脳の在り方を絵にするとこんなふうになると思います。パイプがこのように並んでいる。脳の中のいろんな絵を持ってきたんです。

あるいはルイス・ターティン)という人の作品ですけれども、こんなレベルです。最近はもうちょっと面白いものを作っています。つまり、脳の研究ができる前というのは脳の中を見ても細かすぎて一見アモルファスで何も細部の構図が見えないとなると、そこで起きていることはすごくメカニックで単純な何かの運動というぐらいで終わっていたんです。