2017年7月24日月曜日

「自己開示」ってナンボのものだろう? (採録)(こんなものも書いたなあ ⑰)

久しぶりに読み直すと、結構面白い

               
古くて新しい「自己開示」の問題
また仲間の先生方と本を作った。「臨床場面での自己開示と倫理」(岩崎学術出版社, 2016年)である。共著者の横井先生、吾妻先生、富樫先生は毎年精神分析学会で関係精神分析関連の企画をする仲である。もう10年以上続けているだろうか。
この本の題名に盛られた「自己開示」や「倫理」は、そこで何年か前に扱われたテーマである。未だに自己開示は臨床家の間では問題になることが非常に多いが、これを正面から扱った本は皆無と言ってよい。(実際ネットで「自己開示」を検索することで、それが確かめられる。全くと言っていいほど検索に引っかからないことがわかるだろう。)その意味では本書はかなり珍しい本と言ってよいだろう。
「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、いまだに彼らにとっての論争の種である。この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会のA先生は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン(私のことである)、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」 精神分析のB先生は私が非常に尊敬している方だが、彼も自己開示は無条件で戒める立場だ。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は精神分析の本流の先生からは否定されるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけではなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」と言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示はしばしば自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスには所持品があふれ、治療者が発表した書籍や論文はある意味では自己開示が満載である。あるいは治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示していると言うのが、現代的な考え方の一つである。
ここから一つ言えることは、精神分析の本流からは自己開示は認められないであろうことは確かなことだということだ。これほど有名な先生方の見解なのだから間違いがない。しかしおそらく彼らはこともなげにこう言うはずだ。「精神分析的な治療でなければ、自己開示はあり得るでしょう。」つまりは「正統派」の精神分析を外れたところに自己開示の真の価値があるということであろう。それはどのような意味なのか? あとは私たち4人がそれぞれ知恵を絞った論考を読んでそれぞれがお考えいただきたい。

臨床家の自己愛問題
私が最近になって特に思うのは、自己開示の問題には臨床家の自己愛が深く関係しているということである。本書(「臨床場面での自己開示と倫理」)にも書いたことだが、私自身はむしろ「臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」と考えているくらいだ。有名なフロイトの研究でも、彼自身は、晩年に治療した43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ(Lynn, et al, 1998)。「自己開示反対」は、自己開示をしたい分析家のいわば反動形成的なところがあるのではないかとさえ思う。そこには分析家自身が自分の考えに対して過剰に自信や思い入れを持つ傾向もあろう。
 そこで本稿の表題「自己開示ってナンボのものだろう?」に立ち戻る。かなりくだけた表題だが、これは「臨床家は、自分の自己開示にいったいどれだけの価値があると思っているのだろう?一度よく考えてみてはどうか?」という提案のつもりである。治療者が自己開示を回避する姿勢は、その見かけ上の価値やインパクトを結局釣り上げていることになりはしないか? 
自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、自己愛というもう一つの問題に到達する。自己開示を回避することは治療者にとって圧倒的に自分自身のプライドや権威を保つことを助けるという面がある。要するに「自己開示拒否」には治療者側にとって好都合な要素がたくさんあるわけだ。それがどうしても「患者のためなのか」という議論に優先する。 
 ここで整理しておこう。分析家の自己愛問題は「自己披瀝をする」という方向にも、「自己開示をしない」方向にも両方働くのだ。これは興味深い事実である。要するに自己愛的であるということは、「自分が披瀝したいことを語り、本当に恥ずかしいことや都合の悪いことには口をつぐむ」ということである。かつてハインツ・コフートは聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることに不快を示したという。自分のことを話したがる治療者でも、クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することを請われるとそれを侵入的と感じ、ムッとするものだ。そこで私がしばしばセラピストの卵たち伝える以下のメッセージとなる。「治療者は自分の体験を話すことが役に立つのであればいくらでも披露する用意を持ちつつ、しかし自分の余計な話を極力するべきでない」。
 この私の立場は実は私のもう一つの考えである「ヒアアンドナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒアアンドナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、セラピストがそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。「あなたが時間に遅れてきたのは、治療に対する抵抗ですね」は、セラピストが本当に冷静な気分でないと逆効果だろう。さらにはクライエントの遅刻が実際の抵抗である可能性がかなり高くないと意味がない。また「あなたが遅れたのは治療に抵抗していますね」という治療者の側の見立ての自己開示ということになるということを勘案しなくてはならない。ヒアアンドナウが真に変容的(mutative, Strachey)であるというテキスト通りの理解に沿ったものではなく、あくまでもクライエントにとって重要な提案であるから行うのであり、「正しい分析」を行うためではない、という条件もクリアーしなくてはならない。これだけのハードルを越えて行われる転移解釈はごく限られた機会にのみ有効に行われることになるであろう。

臨床家が自分の自己愛をチェックする
ここで臨床家が深い自己愛に陥っているかどうかをチェックする方法を考えた。こんなことを患者から問われたことを想像するのである。
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」 
もちろん突然これを実際にクライエントから尋ねられたら治療者は驚くだろうし、侵入的に感じるだろう。「この質問のその背後にあるものは何か?」と考えたくもなろう。だから想像上のクライエントから真剣に、あるいは恐る恐る尋ねられた場合を想定するのだ。自分が患者を援助する立場にある、というだけでなく無意識的に自分は患者より優れている、上の立場にいる、という気持ちを持ちやすい治療者なら、この状況を頭に描いただけでもその質問を非常に侵入的で攻撃的にすら感じるだろう。「この患者は自分の問題を扱われることを回避して、私を同じようなレベルに引き摺り下ろそうとしているのではないか?」「この患者は明らかに治療に対する抵抗を示している。」 でも患者は目の前の治療者が自分とは異なる超人的な人間であり、自分のような人間的な悩みは持っていないというファンタジーと一生懸命戦っていて、ふとこのような疑問が出ただけかもしれないであろう。そう、この種の自己開示にどれだけ抵抗を示すかが、その治療者がいかに自己愛的なスタンスをもっているかの明確な指標となるのである。他方で「ああ、私自身のセラピストにも同じようなことを感じたなあ」と自分のトレーニング時代の体験を思い出せる治療者はおそらく自己開示を本当の意味で臨床的に用いることが出来る立場に一歩近いのであろう。
Lynn,DE, Vaillant,GE (1998) Anonymity, neutrality, and confidentiality in the actual methods of Sigmund Freud: A review of 43 cases, 1907-1939. American Journal of Psychiatry, 155:163-71.